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完結編・プロローグ(2) 『高頭 柊……その葛藤と決意(前編)』

 こんばんは、ご無沙汰どころの騒ぎではなくご無沙汰でした、チャパロットです。なんとか生きてます。
前回の更新から丸々1年以上を経てようやく復活出来そうな状態になったので、また創作活動を再開していきたいなと。

とりあえず今回は完結編の序章第2弾、オリンピック金メダリストとなった高頭 柊のストーリーを前後編に分けて掲載していく予定です(前回のアンナvs越花の話がかなり長編だったので)。
よろしければまたお付き合い頂ければ幸いです。









「ふぅ、はぁ……」

 喧噪と熱気に包まれる室内、備え付けられたエアロバイクを無心に漕ぎ高頭 柊(たかとう しゅう)は火照った身体をクールダウンさせていく。
蒸気に染まる頬から形の整ったアゴ先へ汗が流れ、桃色の唇から漏れ出る吐息はその容姿も相まって艶めかしい。

神奈川県最大手のボクシングジム、小原(おばら)ナックルジム。女子の競技としては初めて公式となったロンドンオリンピックで日本に栄光の金メダルをもたらし、母校である私立・光陵高校を卒業し大学生となったのを機にボクシングからは完全に引退……と周囲には明言していたが、実はまだこっそりジムには籍を置いていた。
とはいえプロになる意思がないのは変わっておらず、高校卒業以降はスパーリングすらしていない。
ただ週に2回程度足を運び、一心に身体を動かしては帰っていくのみであった。

「高頭ォ!」

クールダウンも終え、スポーツタオルで汗を拭っていた柊へひと際大きな呼び声が上がる。
小原ナックルジム所属の女子プロボクサーで、『風紀委員』と影であだ名される夏井 咲夜(なつい さくや)だ。

「ふぅ……なんスか? 夏井さん」

声の方へ視線を向け、呼び掛けた主がリングの中にいるのを認めるや何を言おうとしているのか察してしまい、小さく溜息を吐きながらも敢えて返答。
そして、予想したそのままの言葉が柊に降り注がれた。

「わりぃけど、ちょっとスパーの相手してくれねえかな? 今日来る予定だったスパーの相手が都合悪くなったんだとよ。試合まであんまりのんびりもしてられねえんだ。な、頼むよ?」

さばさばとした口調でポニーテールを揺らし、咲夜はバンデージを巻いた両手をパンッ! と顔の前で合わせる。

一言で表すなら勝気な姉御肌の彼女の事を、柊は実は嫌いではない。
むしろ入会当初から気さくに接してくれ、金メダリストとなった後もそれまでと変わらない態度を取ってくれたのは、このジムでは彼女だけだった。
次がA級へ上がれるか否かの大事な試合だというのも勿論知っているし、出来るなら手伝いたいとも思う。
しかし……

「あ~、すみません。オレ今日はもう上がる予定なんで。ホントすみません」

気付けば拒否の言葉と共に頭を下げていた。

「そっか……もうアガリなら仕方ねえな。呼び止めて悪かった、お疲れさん」

気を付けてな、と特に気にした素振りもなく笑顔を覗かせ、咲夜は柊を見送ると先輩の男子練習生に声を掛ける。
少しばかりの気まずさを覚え、柊はもう1度頭を下げるとシャワールームへ向かっていくのであった。



「で、結局スパー断っちゃったわけだ」

 数日後。柊は個人経営のレストラン『ぴくるす亭』の野外ロビーで『女子会』の集まりに参加していた。
メンバーは獅堂(しどう) きらら、弥栄 千恵子(やさか ちえこ)、あと柊を含めた3人。

あの城之内(じょうのうち) アンナと葉月 越花(はづき えつか)との試合から2週間後、こちらも女子高生プロボクサー同士のデビュー戦として一部から話題の上がった、きららと千恵子との試合。
結果は、1ラウンド早々に千恵子の癖を見切ったきららが絶妙なクロスカウンタ-を決めKO。
倒された千恵子が脳震盪を起こしたまま目覚めず、失神・病院送りになるというあまりに壮絶な結末であった。

プロデビュー戦をKO勝ちで飾ったきららだったが、ぐったりと担架に乗せられていった千恵子の姿が脳裏に焼き付いたようで、彼女の入院中に足しげく通い今ではすっかり親密な仲となっている。
そして退院後、千恵子はきららと共に柊を誘って『女子会』を立ち上げたのだった。

「まぁ、な……」

目の前に置かれた抹茶ケーキを次々と口に運び、秋空や紅葉に囲まれ美味を堪能しつつも柊は空返事。
きららと千恵子は事前にまだジムへ通っている事は聞き知っていたが、卒業してから1度もスパーをしていない事は知らなかった。
オリンピックの金メダリストともなるとスパー1つとっても慎重になるものかと思ったが、よくよく思えば彼女は自分をもったいぶるタイプではない。

「なにか事情があるの?」

紅茶のカップを包み込むように両手で持ちながら、千恵子が小首を傾げて柊に訊ねる。

「んぐ……いや、事情ってほどでもねーんだけどよ」

なんとなく、な、と抹茶ケーキをあっさり平らげ白玉あんみつに手を伸ばす。

「それはそうと獅堂。越花の足取りはまだ分かんねーのか?」

白玉を頬張り舌鼓を打ちながら、柊は試合さながらのフットワークでさり気なく話題を逸らす。
急に話題を振られたきららは、チョコチップクッキーを口に運ぼうとしてその内容に手が止まった。

「……うん、残念ながら」

やや俯き加減に、進展のない事をさも申し訳なさそうに答える。
柊の振った話題……それは件のアンナと越花とのプロデビュー戦に端を発した問題である。

お互いプロデビュー戦に挑み、アンナにKO負けを喫した越花が所属していた獅堂ジムから姿を消して約3ヵ月。
一応は辞めたという形を取ってはいるが、関係者の誰1人として納得していない。
当然きららも納得などいく筈もなく、何かと情報を集めてはいるのだった。
しかし所詮は一介の女子大生、得られる情報など知れたもので進展などあって無きが如しと言わざるを得ない。

「雪菜(せつな)の奴が色々知ってるみたいなんだけど、その件に関してはむちゃくちゃ口が固いんだ」

申し訳ないというきららの思いが伝播したのか皆が黙る中、不意を突く活発な声が1つ。
次いでテーブルの上に3人分の器を置き、入れ替えるように空の容器を手際良く銀のトレイに乗せていく。

「はい、試作品のブルーベリーヨーグルトサンデー。店長から食べてみて欲しいって」

不意のスイーツのおかわりと活発な声に、一堂は一斉にそちらへ視線を移す。自然な茶色のショートカットに派手過ぎない色合いのウェイトレスルック。左胸にピン留めされたネームプレートには、3人とも良く知る名前が記されていた。

「よう、桜。久しぶりだな」

一同を代表して、柊が気さくに左手を上げウェイトレスに挨拶する。

桜 順子(さくら じゅんこ)。柊と同じ光陵女子ボクシング部OGで、きららや千恵子と同じ女子プロボクサー。
そして、ここ『ぴくるす亭』のウェイトレスでもあった。

越花の同い年の従姉妹である雪菜ならば、確かに彼女の行方くらい知っていてもなんら不思議ではない。
ただ、雪菜は越花に対して妙に過保護で、彼女の事を最優先で考えている節がある。
順子の言う通り、恐らく誰が問い詰めても頑として動かないだろう。

眼前に置かれたヨーグルトサンデーの器を早速手に取り、柊は越花の足取りに関して断念せざるを得ないと思うのだった。



 時は流れ、吹き付ける風に肌寒さを感じる11月。相変わらず自分のやりたい事が見つからないまま悶々と過ごす柊を尻目に、周りは目まぐるしく変化していた。

まずはボクシングをするきっかけとなった下司 ナミがプロ4戦目をTKOでクリアし、晴れてA級に昇格。
アマチュアでは同じ大学に進んだ雪菜と杉山 都亀が、大学の大会で共に優勝を飾っている。
光陵高校からは女子ボクシング部・3代目主将となった宇都宮 弘美(うつのみや ひろみ)がI・H全国大会を制し、堂々のプロ入りを宣言。

そして今日、つい30分ほど前に告げられた会長からの言葉。

「まいったな」

風に弄ばれる漆塗りの黒い髪を手で押さえながら、柊は今出てきたジムの看板を振り返りながら短く呟いた。

「高頭?」

はぁ、とひとつ溜息を吐くと同時。後ろから聞き覚えのある声に呼び掛けられ柊は振り向く。
そこに立っていたのは高校時代の恩師、植木 四五郎(うえき しごろう)だった。

「センセー……?」

「もう先生じゃねえって。それよりどうしたんだ、そんな思い詰めた顔して?」

「え? いや、別に……」

植木の言葉に顔に出てたか、とバツの悪そうな体で思わずそっぽを向く。しかし柊らしからぬその態度は、逆に植木に悟らせる原因でしかなかった。

「別に、って顔じゃないな、そいつは。まあいい、暇だったらちょっとウチに寄っていけよ」



 植木の誘いに断る理由の見出せないまま、柊は小原ナックルジムの向かいにある吉川(よしかわ)ボクシングジムの応接室のソファに腰を下ろした。
今年の4月に開いたばかりの新規ジムだが、既に練習生は結構な数が揃い活気も充分。
そんな中に幾人か見知った顔もあり、不思議と光陵の女子ボクシング部室を連想させた。

「城之内が移籍ってのは知ってたけど、桃生(ものう)や我聞(がもん)もいるんだ」

熱気に満ちた練習場の風景をガラス越しに眺めながら、柊は無意識に目を細める。
それぞれ目標に向かって邁進する姿を羨むような、そんな羨望を含んだ眼差し。

「俺の淹れたコーヒーだ、まぁ飲んでくれ。で、どうしたんだ?」

テーブルにコーヒーの入ったカップを置き、植木も向かいのソファに座る。俺で良ければ相談に乗るぞ、と無言で告げる恩師を前に、柊は自然と小原会長に告げられた話を紡ぎ出した。

「まいったな。センセーには隠せねーや。実は今行ってるジムの会長から退会しろって言われてさ」

「退会!? 辞めろって言われたのか、あの小原さんに?」

柊の告げた内容に、植木は怪訝そうな表情を作る。
山之井(やまのい)ジムでプロボクサーとして活躍していた頃から、小原ジムには幾度となく出稽古に行き世話にもなってきた。
小原会長の温厚で練習生を第一に考える性格を知っているだけに、その彼の口から辞めろという言葉が出るとは到底思えなかったのだ

「お前、何かやらかしたんじゃないだろうな?」

となると、植木には柊の方に問題があったとしか考えられない。が、この一言は大人の成熟さを備え始めた絶世の美少女の不快を誘うだけだった。

「ンなワケねーだろ。高校卒業してからスパーすらしてねーんだから」

ムスッとしかめ面で反論する柊に、さすがに植木としても考えを改めざるを得ない。
彼が納得するのは、この次に発せられた一言であった。

「堀(ほり)ジムって知ってる? どうもそこと合併するらしいんだよな。ま、合併というよりは吸収、みたいな事は言ってたけど」

植木は驚愕する。
思わずソファから勢いよく立ち上がる程に。

「堀ジムだと!? あいつら、ついに来やがったか!!」

怒りとも憎しみとも取れる複雑な表情を浮かべる恩師に、柊は内心驚きを見せる。

「センセー?」

「ああ、すまん。堀ジムってのは東京にある世界チャンピオンを何人も輩出している名門ジムでな。実績と金にモノを言わせて日本中の有力ジムを乗っ取りに掛かってるんだ。協会にも太いパイプを持ってて、偉いさんも表立って圧力を掛けられないんだよ」

世界戦を幾度となく行った実績があり、チャンピオンも数多く輩出したとあれば自然と練習生も増える。
練習生が増えればお金も入り、ジムも拡張出来る。
そうしていくうちに野心も芽生えたのだろう。

「えっと、力のあるジムってのはまぁ分かったよ。でも、合併ってそんなに悪い事なのか?」

拳を握り熱くなる植木に、柊は小首を傾げながら静々と訊ねる。外からの刺激に内なる熱気を冷まされ、無意識に握っていた拳を解きソファに座り直すと植木は真剣な表情を向けた。

「色々と黒いんだよ、あそこは。利益の為には手段を選ばない。選手なんて使い捨ての道具、くらいにしか思ってねえ連中だ……なるほどそうか、小原さんを狙った理由が読めたぞ!」

柊に視線を向け語る植木が突然手を叩く。彼の中で何か得心のいく仮説が立ったらしい、

「な、なんだよいきなり。ビックリするじゃねーか」

「お前だよ、高頭。お前がいたから急に小原さんの乗っ取りに掛かったんだ」

「あん、オレ?」

「そうだ、お前だ。オリンピック金メダリストのお前が在籍してるジムとなれば、神奈川進出に際して絶好の宣伝になるからな。お前を全面的にバックアップして女子プロボクシング界のニューヒロインに……なんてくらいはやりかねん」

植木の仮説を聞くにつれ、今度は柊がソファから立ち上がる。

「じょ、冗談じゃねーぞ! 矢面に立ちたくねーから秘密にしてるのによ!!」

「言ったろ? 利益の為には手段は選ばないって。お前の意思なんて連中には関係ねえんだよ」

植木の一言に観念したかのように天井を仰ぎ、柊は再びソファへ腰を落とす。そして、長く深い溜息を吐いた。

「そっか。会長、それでオレに辞めろって言ってくれたのか。センセーの言ったように利用されるのが目に見えてたから……」

しばらく目を閉じ無言で俯く柊を同じく無言で見守っていた植木だったが、時を見計らって声を掛ける。

「で、これからどうするんだ、高頭?」

静寂を破る植木の一言に、目を開き柊はゆっくり顔を上へ。そして、

「とりあえず利用されるのはゴメンだから、不本意だけど小原ジムは辞めるよ。その後は未定、だな」

小原ナックルジムを去る決意だけは表明してみせた。しかし、以降は未定という彼女の言葉を聞いて、植木は半ば反射的に思いを口に乗せていた。

「だったらウチに来いよ。お前、卒業してからスパーもしてねえって言ってたけど、本当はボクシングに対してまだ熱がくすぶってるんじゃないのか?」

植木にとっては反射的に出たセリフ。しかし、この時の柊には背筋に電流の流れる思いがした。

まだ熱がくすぶってるんじゃないのか?

恐らく柊自身も明確に気付いてはいなかった真実。
アマチュア最高峰のオリンピックで頂点を極め、もうボクシングに未練はないと思っていた。
否、思い込んでいた。
しかし、どうやらそうではなかったらしい。
ナミやきらら、千恵子や他の知り合いの噂を聞く度に感じていた、ある種の羨ましさ。
その霞がかった正体が、植木の言葉で露わとなったのだ。

やはり植木は自分にとってセンセーで、詰まった時に導いてくれる存在なのかと思うと自然に笑みが零れてくる。
しかし、小原を辞めてすぐに吉川ジムへ移籍というのはさすがに不義理な気がした。ので、

「そうだなぁ。ちょっと考えさせてよセンセー」

敢えて返答を濁すのだった。



 12月。植木からの誘いを受けてから約1カ月が経ち、柊は未だ決心のつかないまま無為に時を過ごしていた。
いや、殆ど決心は固まっている。ただきっかけが欲しい。何か背を押す一押しが。
大学の講習を終え何となく街を歩いていた時、一押しは突然やってきた。

「ん、なんだ?」

鞄に入れていた携帯が着信のメロディを奏でる。慌てて手に取りディスプレイを見ると、そこには植木の名が映し出されていた。

「もしもし、センセー?」

1カ月も答えを引き延ばしたのに我慢も限界に来たか、と内心苦笑しつつも通話ボタンを押した柊の耳に、ざわざわと騒がしい音と共に植木の声が聞こえてきた。

「高頭、今暇か? 大学もう終わってるよな? 急いでジムに来てくれ、頼むよ」

鼓膜を叩く恩師の声は随分と余裕がない。一体何があったのかと問う前に、答えは向こうからやってきた。

「お前、マイヤ・クリスチーナ・アントノフって知ってるだろ? ライト・フライ級世界チャンピオンの。それが今ウチのジムに来てるんだが、なぜかお前を呼んでくれって聞かねえんだよ」

この名前を聞いて、柊は不思議な緊張感に襲われた。

マイヤ・クリスチーナ・アントノフ

約2年前、ロンドンオリンピックの強化選手として強化合宿へ参加していた際、同じく強化選手だった幼馴染みの加藤 夕貴(かとう ゆうき)と共に沖縄の地で偶然知り合ったロシア人女性。

プロの世界チャンピオンだという彼女から少しだけアドバイスを受け、結果柊はストレートのスピードに磨きをかけオリンピックを制したのである。
正直、マイヤと再び接点が繋がるなど考えすらしなかった。しかし、彼女は自分を呼んでいるという。

柊は植木との会話を切るや、得体の知れない何かに押されるように全力で走り始めていた。

「はあっ、はあっ、はあっ」

どれだけの距離を全力疾走しただろうか。何故そこまで慌てて走ったのか。自分でも分からないまま大きく息を乱し、大粒の汗を浮かべ柊は吉川ジムへ辿り着く。
そんな彼女をジムの入口で立っていた植木が迎えた。

「来たか高頭!」

汗だくで息を切らす柊の姿を確認するや、植木が手引きしジムの中へ招き入れる。
練習場へ招き入れられた柊の眼に映る光景は、久しく忘れていた感覚だった。

中央に設置されたリングの傍で寝かされている、目元をタオルで覆われた練習着姿の女性と、それを介抱するレディーススーツの女性。
赤・青各コーナーでじっとリング内を見守る男性たち。
そしてロープ際を舞台に、2人の女子ボクサーたちが殴り合っている。

いや、ロープを背負った小麦色の肌の女性が一方的に殴られている状況というべきか。

ひたすら拳を振るい攻撃を続けている方こそ、間違いなく柊の記憶しているマイヤだ。沖縄で出会った姿ほとんどそのままの世界チャンピオン。

肩に掛かる程度の緩くウェーブの入った赤い髪、白く透き通る肌にはうっすら汗が光り、黒のタンクトップとショートパンツ、スニーカータイプのシューズ、そして12ozの白グローブという出で立ち。

床に寝かされている女性と現在滅多打ちにされている女性、2人を相手にスパーリングしている最中なのだ。

「高頭 柊、さんね? 一度会ってみたかったの」

そんな中、レディーススーツの女性が立ち上がり柊の前へ進み出る。
年はそんなに離れている感じではない。せいぜい4、5歳上といった所か。
しかし、20代の女性とは思えない威厳のような空気の重みが柊を緊張させた。

「初めまして。ここのオーナーをしています、棗 希美(なつめ のぞみ)といいます。貴女の活躍は現地で観させて頂きました、金メダリスト」

重苦しい空気を纏った希美と名乗る女性は柔らかで自然な笑みを浮かべ、対峙した柊へ右手を差し伸べる。
世界の闘いを制した柊を以てしても抗い難いプレッシャーを肌身に感じながら、それでも平静だけは装い「どうも」と差し出された手を取った。

ちょうどその時、ひと際強烈な殴打音が響き血と唾液を纏ったマウスピースが柊と希美の足元へバウンドしながら転がってくる。
ギシギシとロープの軋むリングへ慌てて視線を戻すと、マウスピースの持ち主であろう小麦肌の女性が最下段のロープから上半身を外へはみ出させ、仰向けに倒れていた。
逆さに向いた顔からは表情が消え、薄く開かれた目と開いた口から唾液が噴き出しているのを見るに、ほぼ失神状態といっていい。
それを察したのは柊だけではなかったらしく、青コーナー側に立っていた宗観がリング内へ入り小麦肌の女性の上半身をゆっくり引き摺り始めた。

「まさかバンタム級の紫(ゆかり)さんとフェザー級の永遠(とわ)ちゃんでも子ども扱いされるなんて……化け物ね、あのチャンプ」

やや眉を顰めながら誤算だったと呟くと、希美は柊と握った手を離す。
そして軽やかにロープを掴み軽やかに飛び越えると、永遠と呼ばれた女性の方へ足早に向かっていった。

「オーナーサン。シュウをつれテきてくれタからニは、ツギはあのコとやらせテくれるんデショ?」

ヘッドギアもせず綺麗な顔に僅かな汗を浮かべただけのマイヤは、永遠を介抱する希美へ少し拙い日本語で話しかけてくる。

「……生憎だけど、それは許可出来ないわチャンプ。彼女はウチの練習生ではないの。従って、“この場で”部外者とのスパーを認める訳にはいかないわ」

願いを断ち切る冷たい刃のような希美の言葉。その返答はマイヤにとって失望させもしたが仕方ないと思う反面もあった。
吉川ジムの練習生でない以上、責任者としてリングへ上げる訳にもいかないと理解出来るから。
ただ、やはり願いが叶わない喪失感は拭いようもなく、あからさまに落胆した表情を見せるとマイヤはたった今倒した相手には目もくれず背を向け、リングを降りようと動く。

もうこの場所に用はない

そう言いたげな世界チャンピオンの後ろ姿。去っていこうとするその姿を目にし、柊はやはり衝動的に叫んでいた。

「待てよマイヤ! オレはこのジムの人間だ、今日入会するつもりだったんだ」



 16:40。吉川ジムの練習場中央に設置されたリングの上に立つ、2つの人影があった。
赤コーナー側には女子ライト・フライ級世界チャンピオン、プロの女王マイヤ・クリスチーナ・アントノフ。
そして青コーナー側にはロンドンオリンピック金メダリスト、アマチュア最強の称号を手にした高頭 柊。

道具一式を持ち合わせていなかった柊は希美の車で一旦マンションへ戻り、オリンピック候補時代に使っていたトレーニングウェアを手に再び吉川ジムへ。
白地のTシャツに赤のジャージズボン、スパーリングという事でマイヤと合わせた12ozの白グローブと同色のヘッドギアを身に着けた柊は、アマチュア引退後初めてのピリつく空気に湧き上がる高揚感を抑えようと必死だった。

「まさか、成り行きとはいえお前が自分からスパーしたいと言い出すなんてな」

そんな柊へ、グローブのマジックテープを止めヘッドギアの調整をしながら植木が意外そうな言葉を掛ける。

「そうだな。どうかしてるよ今日は。オレらしくないっていうのは自分でも分かってる。でも……」

植木の言葉に少しはにかむ表情で返し、ヘッドギアの調整が終わるとその場で軽くステップを踏み始めて一旦言葉を切る柊。
続けてコーナーマットへ1発、2発と右ジャブを打ち込むと今感じている気持ちを打ち明けた。

「無敵の世界チャンピオンがオレを名指しで指名してくれたんだぜ? 嬉しくて涙が出るよ」

ステップ同様、柊の口から紡がれる言葉は軽やか。そこに緊張感はなく、むしろ早く湧き上がる高揚感を解放したいと言っているように、植木には感じられた。

「OK。たった2分だが思いっきりやってこい、俺にお前の全てを見せてくれ!」

マウスピースを銜えさせかつての女子ボクシング部顧問はかつての教え子の肩を小さく叩いて激励、開始のブザーと同時に送り出すのであった。





to be continued……
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チャパロット

Author:チャパロット
基本的に携帯サイトで書かせて頂いているもののリメイク(?)ですが、ちょくちょく文を変更してたりします(あと拙いですが自作絵なども)。
何かある方は、ckcwb305あっとまーくsutv.zaq.ne.jpにご連絡下さい。

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