2014.01.28(Tue)
第54話 『追い出しスパーリング(3) 植木の本気』
プロボクシング編、第54話です。
<拍手返信>
・ぴーこ様:柊に引き続きナミにも格の違いを見せつけられる結果となった弘美。なんとなく彼女はそういう役回りが巡ってきてばかりで少しばかり不憫(汗)
心と晶もとりあえずの決着がつきました。全体の実力こそナミたち三年生には劣りますが、確かにこれからも大会上位は狙っていける部かもです(笑)
追い出しスパーリングも進み、初代主将・三年生の下司 ナミvs新進気鋭の一年生・宇都宮 弘美。
そして旧来の因縁に決着をつけるべくぶつかった、知念 心vs室町 晶。
それぞれに一応の決着がつき、残すは最後の闘い。イタリアンハーフの城之内 アンナと顧問・植木 四五郎との一戦を控えていた。
光陵女子ボクシング部内で行われている、三年生vs一・二年生合同の追い出しスパーリングも早いもので、残り1試合を残すのみとなった。
締めを飾る対戦カードは、三年生・城之内 アンナと顧問・植木との特別戦。
相手にあぶれたアンナを見かねたのと、以前から一度やってみたいと常々言っていたのを汲んでの、二重の意味での実現といえる。
「どうですか?」
目元以外を覆うフルフェイスタイプのヘッドギアを取り出し、植木に被せながら具合を確認する新名 孝子。
無骨極まりないヘッドギアと最初は嫌がったが、網膜剥離を患った彼の身を案じてナミと孝子が一歩も退かなかった為、最終的には植木の方が折れた。
「ああ。いい感じだ、サンキュー」
ポンポンと拳で口元への衝撃を確かめ、植木は小さく頷く。
「あ、あの、植木さん。本当にやるんですか……?」
椅子に座る植木の前にしゃがみ込み、孝子は見上げながら躊躇いがちに尋ねた。
本当に本気でアンナとやり合うつもりなのか?
孝子の質問、その意図は植木にも理解は出来る。何せ、眼前の孝子の未来の1つを自分の拳が確実に奪い去っているのだから。
だが、過去に失敗を犯したとしても、万一再び過ちを犯す事になろうとも、植木にはこういう形でしか教え子への感謝の気持ちを伝える術を持たなかった。
「ああ。俺は城之内と本気でやる。ムラはあるが、あいつの実力は本物だ」
孝子の質問に植木は真剣な眼差しで返す。思わず息を飲むほどの、圧倒されるような眼力。しかし、それも長い事ではなかった。
「そういえばあいつには見せた事なかったっけな、俺の本気のファイト。これが餞別代わりになりゃいいが、しっかり盗めよ」
ふと目元が和らぎ、植木は小声で呟くとある方向へ視線を向ける。釣られて孝子の見た先には、柊と他愛ない雑談をしているナミの姿。
再び視線を戻した孝子は、植木の想い人の存在を悟った。
普段は見せた事のない、慈愛に満ちた優しい眼差し。
終ぞ自分には向けてくれなかった目。
これを見てしまえば、理解せざるを得なかった。
(ああ、そうか。植木さんの好きな子って……)
全てを理解し、同時に自分の恋が終わった事をも理解した孝子。が、自棄になって今の責任を投げ出すような真似はしない。
泣くなら全てが終わってから、お酒でも片手にしんみりやろう……そう思うのだった。
一方の赤コーナー側。アンナは試合を終えたばかりの越花にグロービングを手伝って貰っていた。
「いよいよこれで高校最後、なんだね」
自分の拳にグローブが通されるのを見ながら、金髪碧眼のイタリアンハーフはしみじみと感想を洩らす。
感慨深い口調ではない。どこか、これで卒業するのが実感出来ないでいるような、そんな呟き。
「うん、そうだね。なんだかちょっと寂しくなっちゃうな」
右頬に湿布を貼った越花が、そんなアンナの呟きにいつもの間延び口調で相槌を打つ。
「ねえ、アンナちゃん」
グロービングの最中、ふと越花が話し掛ける。ん? とアンナがよそへ向けていた視線を落とすと、声の主はグローブに収まった拳を両手で掴んでいた。
「あ、あのね、アンナちゃん。私ね、ボクシングが大好き。この3年間ですっかりハマっちゃった。今じゃもう写真撮ったり風景絵描いたり、毎年行ってたスキーよりもボクシングの方にばっかり時間取るようになったよ。それも全部……」
そこで一旦区切り、グローブに向けていた視線を茶髪の女の子へ向ける。
「それも全部ナミちゃんのおかげ。或いはナミちゃんのせい。そして」
今度は瓜二つの従姉妹の方へ向け、
「雪菜ちゃんのおかげ。で……」
三度越花は視線を変える。その瞳には眩いばかりの金髪とガラス細工のような碧い目の、肌の白い女の子が映っていた。
「心ちゃんとアンナちゃん……貴女たちのせい」
こっちは完全に“せい”だよ、と越花は小さく微笑んでみせた。
「越花ちゃん」
アンナは戸惑ったような表情で眉を顰める。何が言いたいのか理解に及ばなかったのと、もしかして悪い事でもしたかな? と不安に駆られた為だ。
「こう見えても負けず嫌いなんだよ、私。だから……」
アンナの戸惑いにクスクス笑い、しかしすぐに真面目な表情を作ると越花は言葉を続ける。さらに伝えたかった大事な事を紡ごうとした時、
「そろそろ時間だ、始めようか。先生、城之内、リングに入って」
リング内でスタンバイしていた裕也がアンナと植木を促した。
「えっ、と、越花ちゃん? 呼ばれてるみたいなんだけど」
変わらず戸惑い顔のアンナが、越花へ小首を傾げる。
「あ、ううん、なんでもないの。頑張ってね」
フルフルと頭を振り、越花は話を切り上げると立ち上がりアンナの背中を押す。そして誰にも聞こえない小声で「裕くんのバカ、ちゃんと伝えられなかったよ」と呟くのであった。
追い出しスパーリング最後を飾るライト級の1戦。アンナと植木はリング中央で対峙し、裕也からの注意事項を聞く。
その後グローブを合わせた際、植木は小さく溜息を吐いた。
「ちょっとショックだよ。まさか城之内に背を抜かれるとはなぁ」
170cmの植木に対し、アンナはこの時点で173cm。どちらかと言えば小柄な方と分かっていても、いざ対峙すると嫌でも目につくだけにショックを抑えられない。
「先生?」
「いや、なんでもない。悔いのないよう本気でな」
突然の溜息に小首を傾げるアンナへ掌を向け、気にするなとジェスチャーを送る植木。背の事はひとまず置いて、元ライト級日本2位はこれから始まる闘いに集中するべく一旦目線を外した。
ロープを掴みせわしなく屈伸を繰り返すアンナと、対照的にコーナーを向いたまま微動だにしない植木という開始前のリング上。
泣いても笑っても、これが追い出しスパーリング最後のプログラム。そんな中、ある疑問を口にする者がいた。
「そういやセンセーが闘うトコって初めて観るな。実際どれくらい強えんだ?」
ナミの隣にいた柊である。その問いに、女子部員たちは誰1人として答えられない。
最も近くにいたナミですら、植木のファイトは見た事がないのだから仕方のない事といえよう。
彼のファイトを見た事があるといえば新名 孝子と大内山 由起だが、孝子はセコンドとして青コーナーにあり、由起に至ってはこの場にいない。
つまり、柊の疑問に回答を示せる者など……
「あの人のボクシングは俺にとっての理想系だ」
いた。1人だけいた。
「鉄平?」
スタッフという形で今回の企画に参加している、男子ボクシング部の我聞 鉄平。
リングへ目線を向けたままの彼は、いつものようにぶっきらぼうな口調で言い放った。
「理想系ってどういう……」
思わぬ回答者を得た柊だが、疑問を解けるほどの回答ではなくさらに疑問を続けようとする。が、それは開始のブザーによって遮られた。
百聞は一見に如かず
そう言わんばかりに黙ってしまった鉄平の見るものを追うように、全員がリング上を注視する。程なくして試合開始のブザーが鳴り、アンナと植木はゆっくりと距離を狭めていった。
グローブを軽くタッチし、互いにファイティングポーズを構える。途端、アンナは息を呑んだ。
こめかみに銃口を突き付けられたような、首筋に鋭利な刃を当てられたような、例えるならそんな絶望感。
それは全て、グローブで顔を覆う眼前の男が放つ殺気のような重圧だった。
(えッ、なにこれ。なにこれ、なにこれ!?)
全身からぶわっと嫌な汗が噴き出す。
悟られまいと平静を努めるも、瞳の碧は小波のように揺れ動く。
正直、この時のアンナは嬉しいより怖いという感情の方が勝っていた。
「シッ」
重苦しい重圧に中てられ浮足立つ少女へ、さながら目覚ましの如く植木が息を吐き左ジャブを放つ。
それは顔で乾いた音を爆ぜ、次いでその頭が後ろへ小さく反り返った。
「え……?」
ナミと秋奈、そして詩織以外の部員が合わせて声を上げる。総じて植木のハンドスピードに驚いた者たちだ。
といっても、3人は同じジムで幾度か植木のシャドーボクシングを見た事があっただけに過ぎない。初めて見た時は、やはり他の部員たちと同様のリアクションだった。
「どうした城之内? 落ち着け」
白い頬に赤い筋を流し茫然とした表情のアンナへ、植木が優しく諭す。しかし優しいのは声だけで、目つきや仕草などは完全にボクサーそのもの。
これが本当に引退して数年以上経つ人間なのかと、彼を知る部員もギャラリーも例外なく感じていた。
「先生……よぉし、行きますよ!」
1発打たれてようやく現実味が沸いてきたのだろう、アンナは鼻血をグローブで拭うと構え直し植木と対峙する。
そして強気に左ジャブを繰り出した。
ビュンッ! と空を裂き迫る左拳を植木は最小限のサイドスウェーでかわし、パンチの戻り際を狙って逆に左ジャブを繰り出す。
最小限の動きだけにフォームも崩れず、しかも構えた左拳がそのままズームアウトするように見えた瞬間、またもアンナの顔が小さく仰け反った。
「なにアレ? モーションが、ない」
再び繰り出された植木のジャブに、ある特徴を見つけ抹権 ひかるが呟く。
柊に劣らぬ抜群の動体視力を誇る彼女だからこその感想。他の者はそこに気付きすらしていなかった。
「メキシカンボクサー独特のノーモーションジャブってヤツだな。センセーがそんなパンチを打つとは思ってもみなかったけど」
ひかるの呟きに反応し、その柊が横合いから自信ありげに答える。ただ冷静な声とは裏腹に、その表情には驚きや戸惑いのようなものが見て取れた。
「アンタなんでそんな事知ってるの?」
あっさりと疑問を解消してみせた柊へ、次はナミが疑問を呈す。
メキシカンボクサーに独特のスタイルを持つ選手が多い事は常識として知っていたが、実際に見た事がない為確信を持てないでいるのだ。
「オリンピックでメキシコのヤツと当たったからな。しかも1回戦目で」
ナミの疑問を解きほぐす、柊の納得いく回答。思えばこの場で唯一、彼女だけが世界の最高峰と手合わせをしてきたのだ。
そして本人も1回戦でメキシコ代表の女子ボクサーと闘ったというだけに、もはや間違いはないだろう。
ナミのみならず、部員全員が納得した所で一同は視線を再びリングへ戻す。
そこでは、アンナが仕掛けたコンビネーションを植木が巧みなディフェンス技術でかわしている最中だった。
「シュッ、シュッ! シィッ!!」
がむしゃらに左ジャブ、右ストレート、左アッパー、右ボディーストレート、左フックとパンチを繰り出すアンナ。
が、それらをバックスウェーでかわし、ストッピングで止め、サイドステップで避け、パーリングで弾く。
まるでお手本を見せているかのような、植木のディフェンスの数々。
それは、ディフェンスの甘いアンナへ直接教授しているような時間でもあった。結局、植木は最初の2発以降全く手を出さずディフェンスに徹するのみで第1ラウンドは終了。
大して汗もかかず涼しい様子で青コーナーへ戻っていった。
一方のアンナは強烈過ぎるプレッシャーを撥ね退けるように手を出し続け、しかし1発もクリーンヒットへ繋げる事が出来ず消耗をしてしまう。
それは、スツールに座った時に噴き出す汗の量が物語っていた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
たった2分間。それだけしか動いていないのに、アンナには途方もない長時間を闘っていたように感じる。
ここまで当たる気がしないのは、女子ボクシング部創設の際に闘った鉄平との試合の時以来かも知れない。
(先生すごいよ……鉄平ちゃん)
少し荒れた呼吸を整えながら、アンナはちらっと鉄平の方を見る。鉄平は友人たちと談話していたが、アンナが見ているのに気付くと照れくさそうに慌てて目を逸らした。
「先輩、戦術を一手ご指南致したく。先生はどうやら顔への防御は鉄壁の様子」
鉄平の方を向いていたアンナへ、身体の汗を拭きながら赤コーナー側のセコンドに回ってきていた伊藤 教子が時代がかった物言いで提案する。
「うん」
「そこで狙いを腹部へ集中しては如何かと。或いは誘いなのかも知れませぬが、全く当たらぬよりは幾分事態は良くなると思われまする」
教子の提案を受け、アンナは熟考する。確かに網膜剥離の件もある為、先生としては顔への被弾は意地でも避けなければならない。
その為のフルタイプのヘッドギアであり、顔への強固なガードなのだ。
となれば、やはり悟られようとボディーブロー主体で攻めるのが正解なのかも知れない。
「分かった。それで行ってみるよ」
アンナは教子の提案を良しとし、大きく頷く。そしてマウスピースを銜えさせて貰うと、グローブを鳴らしながらスツールを立つ。
顔へのヒットは捨てた。狙うはボディー!
女子のパンチ力でどこまで男性の鍛えた腹筋を崩せるか? そういう部分でも興味が沸き、闘志に火が付いた。
第2Rに入り、顔へのパンチはフェイント程度に抑えボディーブロー主体の攻めに切り替えたアンナ。
植木としては顔への被弾を徹底して阻止する必要があり、紀子の読み通り誘いの意味も兼ねたガードなのだが、ここで誤算が生じた。
「うぐッ」
振り回すような右ボディーフックを脇腹に叩き込まれ、思わず声が漏れる。
そう、アンナのパンチが想定外に重かったのだ。
(こいつ、上手く体重乗せてきやがる)
しなやかな全身の筋肉を連動させて遠心力を生み、巻き込むように繰り出す重いパンチ。
部活動で体重移動の得意なナミが散々指導し、由起の手でまとめられたトレーニングノートによる練習の成果が如実に現れていた。
そして、それは元を辿れば植木がナミに教えてきた事でもある。
(ったく、オフェンスに関してはとんでもなく飲み込みがいいな)
現部員の中でもオフェンス能力だけなら1、2を争うアンナ、1発当てた事でようやく自分のリズムに乗ってきたようだ。
あくまでボディーブローをメインとした果敢な攻めを浴びせた。
「ぐッ、んん…ちぃ!」
顔へのガードを外せない都合上、腹限定とはいえ植木の被弾も増えていく。
そして気付けばコーナーを背負わされ、さらなる暴風に耐えなければならなくなった。
「いける! やっちゃえお姉さま!!」
アンナの猛攻を後押しする晶の声援を皮切りに、ギャラリーもアンナへの声援を飛ばす。
そんな中、ナミと柊、そして久美子は黙ったまま1つの仮定を思い浮かべていた。
そして、それは程なく仮定ではなくなる。
グシャッ!
まるで瑞々しい果実を潰したような音がコーナーで鳴り、汗が周囲に飛び散る。口から飛び出した唾液まみれのマウスピースがリングの外へ放物線を描き、ギャラリーの中の女子生徒から小さな悲鳴が上がる。
猛攻の中から狙いすましての右フック一閃。
死角からカウンターを貰い顔を捻らされたアンナは訳も分からず、両膝を落とすとそのまま崩れ落ちるのであった。
to be continued……
<拍手返信>
・ぴーこ様:柊に引き続きナミにも格の違いを見せつけられる結果となった弘美。なんとなく彼女はそういう役回りが巡ってきてばかりで少しばかり不憫(汗)
心と晶もとりあえずの決着がつきました。全体の実力こそナミたち三年生には劣りますが、確かにこれからも大会上位は狙っていける部かもです(笑)
追い出しスパーリングも進み、初代主将・三年生の下司 ナミvs新進気鋭の一年生・宇都宮 弘美。
そして旧来の因縁に決着をつけるべくぶつかった、知念 心vs室町 晶。
それぞれに一応の決着がつき、残すは最後の闘い。イタリアンハーフの城之内 アンナと顧問・植木 四五郎との一戦を控えていた。
光陵女子ボクシング部内で行われている、三年生vs一・二年生合同の追い出しスパーリングも早いもので、残り1試合を残すのみとなった。
締めを飾る対戦カードは、三年生・城之内 アンナと顧問・植木との特別戦。
相手にあぶれたアンナを見かねたのと、以前から一度やってみたいと常々言っていたのを汲んでの、二重の意味での実現といえる。
「どうですか?」
目元以外を覆うフルフェイスタイプのヘッドギアを取り出し、植木に被せながら具合を確認する新名 孝子。
無骨極まりないヘッドギアと最初は嫌がったが、網膜剥離を患った彼の身を案じてナミと孝子が一歩も退かなかった為、最終的には植木の方が折れた。
「ああ。いい感じだ、サンキュー」
ポンポンと拳で口元への衝撃を確かめ、植木は小さく頷く。
「あ、あの、植木さん。本当にやるんですか……?」
椅子に座る植木の前にしゃがみ込み、孝子は見上げながら躊躇いがちに尋ねた。
本当に本気でアンナとやり合うつもりなのか?
孝子の質問、その意図は植木にも理解は出来る。何せ、眼前の孝子の未来の1つを自分の拳が確実に奪い去っているのだから。
だが、過去に失敗を犯したとしても、万一再び過ちを犯す事になろうとも、植木にはこういう形でしか教え子への感謝の気持ちを伝える術を持たなかった。
「ああ。俺は城之内と本気でやる。ムラはあるが、あいつの実力は本物だ」
孝子の質問に植木は真剣な眼差しで返す。思わず息を飲むほどの、圧倒されるような眼力。しかし、それも長い事ではなかった。
「そういえばあいつには見せた事なかったっけな、俺の本気のファイト。これが餞別代わりになりゃいいが、しっかり盗めよ」
ふと目元が和らぎ、植木は小声で呟くとある方向へ視線を向ける。釣られて孝子の見た先には、柊と他愛ない雑談をしているナミの姿。
再び視線を戻した孝子は、植木の想い人の存在を悟った。
普段は見せた事のない、慈愛に満ちた優しい眼差し。
終ぞ自分には向けてくれなかった目。
これを見てしまえば、理解せざるを得なかった。
(ああ、そうか。植木さんの好きな子って……)
全てを理解し、同時に自分の恋が終わった事をも理解した孝子。が、自棄になって今の責任を投げ出すような真似はしない。
泣くなら全てが終わってから、お酒でも片手にしんみりやろう……そう思うのだった。
一方の赤コーナー側。アンナは試合を終えたばかりの越花にグロービングを手伝って貰っていた。
「いよいよこれで高校最後、なんだね」
自分の拳にグローブが通されるのを見ながら、金髪碧眼のイタリアンハーフはしみじみと感想を洩らす。
感慨深い口調ではない。どこか、これで卒業するのが実感出来ないでいるような、そんな呟き。
「うん、そうだね。なんだかちょっと寂しくなっちゃうな」
右頬に湿布を貼った越花が、そんなアンナの呟きにいつもの間延び口調で相槌を打つ。
「ねえ、アンナちゃん」
グロービングの最中、ふと越花が話し掛ける。ん? とアンナがよそへ向けていた視線を落とすと、声の主はグローブに収まった拳を両手で掴んでいた。
「あ、あのね、アンナちゃん。私ね、ボクシングが大好き。この3年間ですっかりハマっちゃった。今じゃもう写真撮ったり風景絵描いたり、毎年行ってたスキーよりもボクシングの方にばっかり時間取るようになったよ。それも全部……」
そこで一旦区切り、グローブに向けていた視線を茶髪の女の子へ向ける。
「それも全部ナミちゃんのおかげ。或いはナミちゃんのせい。そして」
今度は瓜二つの従姉妹の方へ向け、
「雪菜ちゃんのおかげ。で……」
三度越花は視線を変える。その瞳には眩いばかりの金髪とガラス細工のような碧い目の、肌の白い女の子が映っていた。
「心ちゃんとアンナちゃん……貴女たちのせい」
こっちは完全に“せい”だよ、と越花は小さく微笑んでみせた。
「越花ちゃん」
アンナは戸惑ったような表情で眉を顰める。何が言いたいのか理解に及ばなかったのと、もしかして悪い事でもしたかな? と不安に駆られた為だ。
「こう見えても負けず嫌いなんだよ、私。だから……」
アンナの戸惑いにクスクス笑い、しかしすぐに真面目な表情を作ると越花は言葉を続ける。さらに伝えたかった大事な事を紡ごうとした時、
「そろそろ時間だ、始めようか。先生、城之内、リングに入って」
リング内でスタンバイしていた裕也がアンナと植木を促した。
「えっ、と、越花ちゃん? 呼ばれてるみたいなんだけど」
変わらず戸惑い顔のアンナが、越花へ小首を傾げる。
「あ、ううん、なんでもないの。頑張ってね」
フルフルと頭を振り、越花は話を切り上げると立ち上がりアンナの背中を押す。そして誰にも聞こえない小声で「裕くんのバカ、ちゃんと伝えられなかったよ」と呟くのであった。
追い出しスパーリング最後を飾るライト級の1戦。アンナと植木はリング中央で対峙し、裕也からの注意事項を聞く。
その後グローブを合わせた際、植木は小さく溜息を吐いた。
「ちょっとショックだよ。まさか城之内に背を抜かれるとはなぁ」
170cmの植木に対し、アンナはこの時点で173cm。どちらかと言えば小柄な方と分かっていても、いざ対峙すると嫌でも目につくだけにショックを抑えられない。
「先生?」
「いや、なんでもない。悔いのないよう本気でな」
突然の溜息に小首を傾げるアンナへ掌を向け、気にするなとジェスチャーを送る植木。背の事はひとまず置いて、元ライト級日本2位はこれから始まる闘いに集中するべく一旦目線を外した。
ロープを掴みせわしなく屈伸を繰り返すアンナと、対照的にコーナーを向いたまま微動だにしない植木という開始前のリング上。
泣いても笑っても、これが追い出しスパーリング最後のプログラム。そんな中、ある疑問を口にする者がいた。
「そういやセンセーが闘うトコって初めて観るな。実際どれくらい強えんだ?」
ナミの隣にいた柊である。その問いに、女子部員たちは誰1人として答えられない。
最も近くにいたナミですら、植木のファイトは見た事がないのだから仕方のない事といえよう。
彼のファイトを見た事があるといえば新名 孝子と大内山 由起だが、孝子はセコンドとして青コーナーにあり、由起に至ってはこの場にいない。
つまり、柊の疑問に回答を示せる者など……
「あの人のボクシングは俺にとっての理想系だ」
いた。1人だけいた。
「鉄平?」
スタッフという形で今回の企画に参加している、男子ボクシング部の我聞 鉄平。
リングへ目線を向けたままの彼は、いつものようにぶっきらぼうな口調で言い放った。
「理想系ってどういう……」
思わぬ回答者を得た柊だが、疑問を解けるほどの回答ではなくさらに疑問を続けようとする。が、それは開始のブザーによって遮られた。
百聞は一見に如かず
そう言わんばかりに黙ってしまった鉄平の見るものを追うように、全員がリング上を注視する。程なくして試合開始のブザーが鳴り、アンナと植木はゆっくりと距離を狭めていった。
グローブを軽くタッチし、互いにファイティングポーズを構える。途端、アンナは息を呑んだ。
こめかみに銃口を突き付けられたような、首筋に鋭利な刃を当てられたような、例えるならそんな絶望感。
それは全て、グローブで顔を覆う眼前の男が放つ殺気のような重圧だった。
(えッ、なにこれ。なにこれ、なにこれ!?)
全身からぶわっと嫌な汗が噴き出す。
悟られまいと平静を努めるも、瞳の碧は小波のように揺れ動く。
正直、この時のアンナは嬉しいより怖いという感情の方が勝っていた。
「シッ」
重苦しい重圧に中てられ浮足立つ少女へ、さながら目覚ましの如く植木が息を吐き左ジャブを放つ。
それは顔で乾いた音を爆ぜ、次いでその頭が後ろへ小さく反り返った。
「え……?」
ナミと秋奈、そして詩織以外の部員が合わせて声を上げる。総じて植木のハンドスピードに驚いた者たちだ。
といっても、3人は同じジムで幾度か植木のシャドーボクシングを見た事があっただけに過ぎない。初めて見た時は、やはり他の部員たちと同様のリアクションだった。
「どうした城之内? 落ち着け」
白い頬に赤い筋を流し茫然とした表情のアンナへ、植木が優しく諭す。しかし優しいのは声だけで、目つきや仕草などは完全にボクサーそのもの。
これが本当に引退して数年以上経つ人間なのかと、彼を知る部員もギャラリーも例外なく感じていた。
「先生……よぉし、行きますよ!」
1発打たれてようやく現実味が沸いてきたのだろう、アンナは鼻血をグローブで拭うと構え直し植木と対峙する。
そして強気に左ジャブを繰り出した。
ビュンッ! と空を裂き迫る左拳を植木は最小限のサイドスウェーでかわし、パンチの戻り際を狙って逆に左ジャブを繰り出す。
最小限の動きだけにフォームも崩れず、しかも構えた左拳がそのままズームアウトするように見えた瞬間、またもアンナの顔が小さく仰け反った。
「なにアレ? モーションが、ない」
再び繰り出された植木のジャブに、ある特徴を見つけ抹権 ひかるが呟く。
柊に劣らぬ抜群の動体視力を誇る彼女だからこその感想。他の者はそこに気付きすらしていなかった。
「メキシカンボクサー独特のノーモーションジャブってヤツだな。センセーがそんなパンチを打つとは思ってもみなかったけど」
ひかるの呟きに反応し、その柊が横合いから自信ありげに答える。ただ冷静な声とは裏腹に、その表情には驚きや戸惑いのようなものが見て取れた。
「アンタなんでそんな事知ってるの?」
あっさりと疑問を解消してみせた柊へ、次はナミが疑問を呈す。
メキシカンボクサーに独特のスタイルを持つ選手が多い事は常識として知っていたが、実際に見た事がない為確信を持てないでいるのだ。
「オリンピックでメキシコのヤツと当たったからな。しかも1回戦目で」
ナミの疑問を解きほぐす、柊の納得いく回答。思えばこの場で唯一、彼女だけが世界の最高峰と手合わせをしてきたのだ。
そして本人も1回戦でメキシコ代表の女子ボクサーと闘ったというだけに、もはや間違いはないだろう。
ナミのみならず、部員全員が納得した所で一同は視線を再びリングへ戻す。
そこでは、アンナが仕掛けたコンビネーションを植木が巧みなディフェンス技術でかわしている最中だった。
「シュッ、シュッ! シィッ!!」
がむしゃらに左ジャブ、右ストレート、左アッパー、右ボディーストレート、左フックとパンチを繰り出すアンナ。
が、それらをバックスウェーでかわし、ストッピングで止め、サイドステップで避け、パーリングで弾く。
まるでお手本を見せているかのような、植木のディフェンスの数々。
それは、ディフェンスの甘いアンナへ直接教授しているような時間でもあった。結局、植木は最初の2発以降全く手を出さずディフェンスに徹するのみで第1ラウンドは終了。
大して汗もかかず涼しい様子で青コーナーへ戻っていった。
一方のアンナは強烈過ぎるプレッシャーを撥ね退けるように手を出し続け、しかし1発もクリーンヒットへ繋げる事が出来ず消耗をしてしまう。
それは、スツールに座った時に噴き出す汗の量が物語っていた。
「はぁ、はぁ、はぁ」
たった2分間。それだけしか動いていないのに、アンナには途方もない長時間を闘っていたように感じる。
ここまで当たる気がしないのは、女子ボクシング部創設の際に闘った鉄平との試合の時以来かも知れない。
(先生すごいよ……鉄平ちゃん)
少し荒れた呼吸を整えながら、アンナはちらっと鉄平の方を見る。鉄平は友人たちと談話していたが、アンナが見ているのに気付くと照れくさそうに慌てて目を逸らした。
「先輩、戦術を一手ご指南致したく。先生はどうやら顔への防御は鉄壁の様子」
鉄平の方を向いていたアンナへ、身体の汗を拭きながら赤コーナー側のセコンドに回ってきていた伊藤 教子が時代がかった物言いで提案する。
「うん」
「そこで狙いを腹部へ集中しては如何かと。或いは誘いなのかも知れませぬが、全く当たらぬよりは幾分事態は良くなると思われまする」
教子の提案を受け、アンナは熟考する。確かに網膜剥離の件もある為、先生としては顔への被弾は意地でも避けなければならない。
その為のフルタイプのヘッドギアであり、顔への強固なガードなのだ。
となれば、やはり悟られようとボディーブロー主体で攻めるのが正解なのかも知れない。
「分かった。それで行ってみるよ」
アンナは教子の提案を良しとし、大きく頷く。そしてマウスピースを銜えさせて貰うと、グローブを鳴らしながらスツールを立つ。
顔へのヒットは捨てた。狙うはボディー!
女子のパンチ力でどこまで男性の鍛えた腹筋を崩せるか? そういう部分でも興味が沸き、闘志に火が付いた。
第2Rに入り、顔へのパンチはフェイント程度に抑えボディーブロー主体の攻めに切り替えたアンナ。
植木としては顔への被弾を徹底して阻止する必要があり、紀子の読み通り誘いの意味も兼ねたガードなのだが、ここで誤算が生じた。
「うぐッ」
振り回すような右ボディーフックを脇腹に叩き込まれ、思わず声が漏れる。
そう、アンナのパンチが想定外に重かったのだ。
(こいつ、上手く体重乗せてきやがる)
しなやかな全身の筋肉を連動させて遠心力を生み、巻き込むように繰り出す重いパンチ。
部活動で体重移動の得意なナミが散々指導し、由起の手でまとめられたトレーニングノートによる練習の成果が如実に現れていた。
そして、それは元を辿れば植木がナミに教えてきた事でもある。
(ったく、オフェンスに関してはとんでもなく飲み込みがいいな)
現部員の中でもオフェンス能力だけなら1、2を争うアンナ、1発当てた事でようやく自分のリズムに乗ってきたようだ。
あくまでボディーブローをメインとした果敢な攻めを浴びせた。
「ぐッ、んん…ちぃ!」
顔へのガードを外せない都合上、腹限定とはいえ植木の被弾も増えていく。
そして気付けばコーナーを背負わされ、さらなる暴風に耐えなければならなくなった。
「いける! やっちゃえお姉さま!!」
アンナの猛攻を後押しする晶の声援を皮切りに、ギャラリーもアンナへの声援を飛ばす。
そんな中、ナミと柊、そして久美子は黙ったまま1つの仮定を思い浮かべていた。
そして、それは程なく仮定ではなくなる。
グシャッ!
まるで瑞々しい果実を潰したような音がコーナーで鳴り、汗が周囲に飛び散る。口から飛び出した唾液まみれのマウスピースがリングの外へ放物線を描き、ギャラリーの中の女子生徒から小さな悲鳴が上がる。
猛攻の中から狙いすましての右フック一閃。
死角からカウンターを貰い顔を捻らされたアンナは訳も分からず、両膝を落とすとそのまま崩れ落ちるのであった。
to be continued……
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