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完結編・プロローグ(3) 『加藤 夕貴の受難(後編)』

 チャパロットです。完結編に至るプロローグの3作を締める最後の1話、夕貴のエピソード後編をお送りします。









バンッ! バスンッ! ドッ、ドッ、バシインッ! バンバアンッ!


 東京、加藤ボクシングジム。お世辞にも広いとは言い難い敷地内に吊るされた古いサンドバッグを、加藤 夕貴は一心不乱に叩き続けていた。
もう何年これを叩いてきた事だろう。7歳の頃には既に打ち込んでいた筈なので、もう10年以上は向き合ってきただろうか。
嬉しい時も悔しい時も悩んだ時も、何かにつれ向かい合っては自分のパンチを受け止めてくれた大事な相棒。

今日もこうやって心の乱れを飲み込むように打たれ続けてくれていた。しかし……

「むやみに打ったって意味ないだろ、加藤?」

背後から窘めるような声が通り過ぎ、パンチンググローブを着け中学時代からの同級生、高野 達也(こうの たつや)がサンドバッグを挟んで向かい合い、リズミカルなテンポでパンチを打ち込み始めた。

「達也くん……」

達也のリズミカルなパンチに対し夕貴のそれは、心の乱れが如実に現れたかのよう。
持ち前のパンチ力によって派手な音を立ててサンドバッグを揺らしていた為、素人目にはさもプロらしいサンドバッグ打ちに見えたかも知れないが、達也には見透かされたらしい。
そう思うと一緒に叩くのも恥ずかしくなり、自然と手が止まった。

「やれやれ、まだ引き摺ってるのかい?」

手が止まった夕貴の姿に、戸を開けまたも背後から1つの声が響く。

「あ……お帰りお義兄ちゃん」
「お疲れッス、那智さん」

加藤ジム会長代理、夕貴の義兄である片山 那智が戸を閉めた所で2人の声が重なった。

「まだ気持ちの整理がつかない? あれはあくまで試合の結果なんだから、いつまでも気にするのは良くないよ」

近付き頭へ優しく手を乗せる那智に、夕貴はいたたまれなくなりつい目を逸らす。
夕貴の心が乱れている理由……それはプロデビュー戦の後に起こった出来事にあった。

プロになる前に色々と世話になり、またデビュー戦の相手として目の前に立ちはだかった先輩ボクサー、丹羽 邑綺。
苦しい闘いを制しプロ初勝利を飾った夕貴だったが、リング上で失神KOを喫した邑綺は意識の戻らないまま病院へ直行。
一抹の不安を胸に覚えつつも後日見舞いに病院を訪れた夕貴だったが、面会謝絶で会う事は叶わなかった。
仕方なく帰ろうとした夕貴に、邑綺のセコンドを務めていた青年男性が呼び止め容体について語った。

右頬及び眼窩底の骨折、さらに脳挫傷で山は越えたが未だ意識が戻らない事。
後遺症が残る可能性が高く、十中八九プロのリングには復帰出来ないであろう事。
そして自分の大事な人をそのようにした夕貴への恨み言。

それらを伝えられた後、夕貴はその肩をこれ以上ない程に落とし帰路に着いた。

「分かってはいるん…だけど」
「それならいい。2人とも、試合が決まった。2か月後だ」
「え?」
「よっしゃあ!」

戸惑う夕貴と喜びを爆発させる達也。対照的な2人のプロボクサーの態度に、那智は思わず糸目を細めた。

「達也くんの相手は宮間(みやま)ジムの浅井 一磨(あさい かずま)選手。夕貴ちゃんの相手は……吉川(よしかわ)ジムの桃生 詩織(ものう しおり)選手だ」

対戦相手の所属と名前を告げられ、夕貴は一瞬身を固くした。吉川ジムの会長・吉川 宗観(よしかわ そうかん)は高校1年生の時に指導してもらった機会があり、長くあの下司 ナミを指導してきた優秀なトレーナーである。
対戦相手である桃生 詩織は光陵高校でナミの跡を継ぎ、3代目の女子ボクシング部主将を務めアマチュアで実績を残したボクサーと記憶していた。

デビュー戦と同様、自分と無縁とは言い難い面子との次戦。
ただ、試合となれば負けるつもりなど毛頭ない。
恩のある相手を2度とリングへ立てなくしてしまった。
もしかしたら今度は詩織を再起不能にしてしまうかも知れない。
だが、夕貴に引き返す意思はなかった。
自分にはボクシング以外、何もないのだから。

試合が決まり対戦相手も分かった。となれば、いつまでも沈んではいられない。
これから先、どれだけ対戦者を潰しクラッシャーと罵られようと、自分の両拳で頂点を掴むまで立ち止まる訳にはいかなかった。



ワアアアアーーーーーッ!!


 会場を木霊する大歓声を浴び、「ダウン!」の宣告に合わせて青グローブとポニーテールを翻し夕貴は悠然とニュートラルコーナーへ向かう。
デビュー戦の時の反省を踏まえた上で取り組んだ減量は上手くいき、ベストコンディションで臨んだプロ第2戦は2ラウンドまでを終え、圧倒的と言える内容で進めていた。

元より地力に差のある詩織は、開始当初こそ同じサウスポースタイルという事で夕貴を惑わせたがそれも1分を過ぎる頃には全く通用しなくなり、強打を連打で浴び蹲るようにダウン。
その後も2ラウンドで2度。そして今3ラウンド39秒、左フックで身体を吹き飛ばされた詩織はロープに弾かれ前のめりに4度目のダウンを喫したのである。

ロープで弾かれ前のめりに倒れる、あたかも交通事故のような詩織のノックダウンに、もうKOで決まったと高を括り会場内からは夕貴コールが湧き上がっていく。

「詩織ちゃん! 頑張って、まだいけるよ!!」
「詩織ちゃん立ってーーッ!!」

そんな大歓声を打ち破るように、赤コーナー側リングサイド席からジムメイトである城之内 アンナと高校時代の親友である室町 晶が同時に張り裂けんばかりの声を上げた。
その声は赤コーナーサイドで檄を飛ばす植木 四五郎より大きいのだから大したものだ。
その隣で恐らく日本で1番有名なボクシングヒロイン、高頭 柊はただ無言で腕を組みリングを見つめていた。

(まあこーなるよな、普通。桃生にゃ悪いが、アイツとは元々の実力が違い過ぎんだから)

柊にしてみれば、夕貴が詩織を圧倒する試合になるだろうという事は、いわば当然の成り行きというもの。
はっきり言って、今日がデビュー戦の詩織には荷が重すぎる相手であった。

(どう考えてもミスマッチだろ、これ。あのオーナーはなに考えてんだか)

正直、柊も詩織のこの4度目のダウンは決定的だと思っていた。いくら声を張り上げて檄を飛ばしても、詩織の意識が残っているのか怪しいとすら感じている。
オリンピックで世界のトップランクボクサーたちのパンチを受けてきた柊だが、ついに夕貴を超える程の強打に出会う事はなかったのだから。

「2…3…4…」

うつ伏せでリングに沈んだ詩織の間近でレフェリーがダウンカウントを数えるが、詩織は動く様子を見せない。

「おらーー、桃生しっかりしろ! 何の為に練習付き合ってやったんだ!?」

そんな絶望的な状況で、アンナや晶、柊の後ろからこれまでで1番の体育会系な怒声が響き渡る。

高校時代の先輩で詩織が露骨に想いを寄せる吉川ジムの男子プロボクサー、我聞 鉄平(がもん てっぺい)だった。

鉄平の会場を震わせる怒声とレフェリーのカウントが5を数えたのはほぼ同時。
その時、全く動く気配のなかった詩織は両拳をキャンバスに着き上体を起こし始める。
そして鼻血で口の周りを汚した顔に必死な形相を貼り付け、近くのロープへ縋りつくようにカウント9で立ち上がった。

「桃生、これが見えるか?」

ロープを背にファイティングポーズを構える詩織へ、レフェリーが右手を眼前にかざす。

「はぁ、はぁ、はぁ……3、です……」

ダウンした際にマウスピースが零れ落ちたらしく、血の滲んだ歯を見せ詩織は答えた。
実はダウンの影響で視界がぐにゃぐにゃに歪み切っており、詩織は半ば自棄気味に答えたのだが、これが当たっていたらしい。
やや怪訝そうな表情を見せつつレフェリーは落ちたマウスピースを赤コーナーへ放り洗うよう指示、返ってきたそれを銜え直させると「ボックス!」と試合再開を宣言した。

「ンだよあいつ。どれだけ嬉しかったんだよ」
「いやあ、さすが愛のパワーは奇跡のパワーだねえ。鉄平ちゃん」

綺麗に整った眉をハの字に顰め憮然と文句を垂れる柊をよそに、アンナが茶化すように鉄平の方へ身を乗り出し、顔を間近に寄せていく。

「べ、別にそんなんじゃねえよ。桃生先輩に頼まれたから、仕方なく…だな……」

吐息がかかりそうなほどに顔を近付けてきたアンナに耳まで真っ赤にし、鉄平はそっぽを向いた。

(ったく、人の気も知らねえで近くまで顔寄せてきやがって)



「夕貴ちゃん行けえ、このラウンドで仕留めろ!」

 青コーナーサイドから那智の声が届く。夕貴も元よりそのつもりとファイティングポーズを取り、一気に詩織の下へダッシュ。
ダメージを確かめるように右ジャブを数発、まだ足取りの覚束ない詩織へ突き出した。

「ぐっ、はうっ…ガ、ガードが……」

顔を覆うようにガードを固め夕貴のパンチをブロッキングする詩織。たとえジャブといえど、今はまともに貰う訳にはいかない。
しかし、確認目的のジャブが今の詩織には酷く重い。ガードする腕が軋み、衝撃は殺し切れずに身体を蝕んでいく。

(まだガードが固いな、桃生さん。よし、もっと揺さぶってみるか)

押せば倒れそうな感じの詩織の芯に、未だ根を張る強靭さを感じ取った夕貴は僅かな時間で脇目を振り電光掲示板に目を配る。
指し示した残り時間は1分弱。まだまだKOを狙うには充分すぎる時間だと判断すると、ガードの上からジャブをぶつけ得意の左フックのモーションを見せた。
それはやや大振り気味で、ジャブから次のインパクトまでに若干の猶予を与えてしまう。
これに反応した詩織はバックステップでかわしつつ右ジャブで牽制、距離を離すプランを実行に移そうとした。が……

「バカ、下がんな!」

柊がこの試合初めて大声を放った。

「えッ? おぐおッ!」

上体を起こしバックステップを開始した瞬間、夕貴の右ストレートが詩織のボディーを抉っていた。

腹に鈍痛が走り、反射的に涙がこぼれ口が開くと詩織は再び身体を丸めてしまう。
大振り気味のフックはフェイントで、途中で止めると同時に一足で踏み込み半身で肩を入れ、目いっぱいリーチを稼いでのボディーストレートに行った。

詩織は、夕貴に完全に誘導されたのである。詩織もアマチュアで少なくない実戦を重ねてきた実力はあるものの、夕貴とはそもそもの年期が違った。

ヒット重視のストレートだけにダメージはあまり期待出来ないが、心理的動揺を誘うには充分だろう。

(ここで決める!)

夕貴は動きの鈍った詩織へワン・ツーから身を入れて右ショートアッパーと、いよいよ詩織の意識を刈りに顔へ集中打を浴びせ始めていった。

「ぶッ、うぶうッ、ぐぎゅッ!」

軽快な打撃音が響き、詩織は汗や唾液を撒き散らし顔が激しく揺れ動く。KO狙いの夕貴のパンチで意識は混濁し、気付けばその背後には自陣である赤コーナーが迫る。

「くそッ、ここまでか!」

フラフラ揺れる詩織の姿に、これ以上あの凶打に晒させる訳にはいかないとエプロンコーナーの植木は肩に掛けたタオルに手を伸ばす。

「詩織ちゃん、逃げてええッ」
「やばいよ、詩織ちゃん耐えてえッ」
「桃生、前来てるぞ、しっかりしろおッ」

明らかにグロッギーな詩織へ仲間たちから必死の檄が飛ぶ。しかし無情にも詩織はガードが中途半端に落ちた状態でその背中をコーナーマットに押し付けてしまった。
大量の汗がマットに付着し、口から水気を含んだマウスピースが顔を覗かせる。

「ッは!?」

背中を打ち、鼻血が顎まで流れる不快感に微睡んでいた意識が覚醒した詩織は、今まさに絶体絶命な状態にある事を瞬時に理解した。
ガードする為の両腕が胸元くらいまでしか上がっていない所へ、夕貴のあの怪物的なパンチが自分の顔目掛けて放たれようとしていたのだから。

「ひぃッ!」

背筋に冷や汗が流れるより早く短い悲鳴を上げ、詩織はダッキング……というよりは頭を抱えてしゃがみこむといった風で、間一髪死神の首狩鎌をかわした。
すぐ真上で暴力の塊がコーナーマットに激突し、ズドンッ! と耳を塞ぎたくなる程の轟音。
次いでリング全体を揺らすかのような振動が、コーナーマットとリングロープを伝播していった。

間近にいた植木や宗観が、女子とは思えない夕貴のその豪打に声を漏らす。
ギシギシと軋み音を立てるマットとロープが収まらないまま、夕貴は慌てる様子も見せず次弾を装填。身を落とし体勢の整わない詩織へ、打ち下ろしの左ストレート!

反射的に頭を下げ被弾を避けた詩織は、視界の隅にタオルを投げるべくタイミングを計っている植木の姿を見て取ると急に全身の力みが抜けていくのを感じた。
と同時に、1発のクリーンヒットすら出来ないプロデビュー戦KO負けなんて嫌だ! と捨て身の気持ちを左拳に乗せ繰り出した。

夕貴はチョッピングのストレート。
対する詩織の放つ軌道はボディーブロー。

互いの大砲が唸りを上げて迫っていく。
だが、体勢を崩していた分だけ詩織のモーションは僅かに遅れていた。

(ダメだ、間に合わねえッ)

この決死の捨て身は玉砕に終わる……この時、柊は神懸かり的な動体視力でそう確信していた。
夕貴も、よしんば相打ちになってもボディーブローなら万一にも意識が絶たれる事はないと腹筋を締め衝撃に備えた。
しかし、不意に夕貴のパンチは失速する。
手心を加えた訳ではない。
無意識のうちに、身体がセーブを掛けてしまったのだ。

「ッ!?」

最後の悪足掻きのような詩織の必死な姿に、ある人物の姿が重なって見えたからだった。

(丹羽さん!)

自分のパンチで再起不能にしてしまった恩人の幻影が、目の前の女の子と重なり合って映る。

そうやってあなたはまた壊すの?

幻影だけでなく、幻聴すら聞こえた気がして、夕貴は表情を強張らせた。
まさにその瞬間だった。

詩織の左拳の軌道が急速に下から上へ変化し、硬直した夕貴の顔へめり込むように炸裂したのは。


スギャアッ!!


耳障りな鈍い打撃音がリング上で爆ぜる。
捨身の詩織が放ったのはボディーブローではなかった。
プロに転向するにあたり、兄である桃生 誠(まこと)から授けられた隠し玉、スマッシュだった。

「うああああッ!」

無我夢中でヒットさせた左拳。詩織はありったけの力を込めて振り切ると、カウンターの餌食となった夕貴は激しくポニーテールをばたつかせ、海老反りに身体をしならせる。
全身に纏わりついた汗が霧雨のようにリングを舞い散る中、夕貴はスローモーションのようにゆっくりと膝を折り後頭部をキャンバスに落とした。
ゴンッ、という危険な音から程なく、仰向けに転がった夕貴の姿に状況が把握出来ないまま、レフェリーは自信なさげに「ダ、ダウン」と宣告。
あまりに不自然、あまりに予想外の出来事に観客たちは我が目を疑わんばかりに赤コーナー付近へと注視していく。
満身創痍の詩織はスマッシュを振り抜いた恰好のまま肩を上下し、少し離れた場所でKO勝利目前だった筈の夕貴は、仰向けに寝そべり身体を硬直させている。

少しの逡巡の後、ようやく状況を飲み込んだ観客たちは次第に声を上げ始め、それは一斉に大歓声へと変化していった。

「桃生、早くニュートラルコーナーへ」

未だ固まったままの詩織に、レフェリーが指示を出す。その声にようやく反応すると、重いが確かな足取りでニュートラルコーナーへ向かっていく。
詩織がようやく辿り着いたのを確認し、次に確認すべき相手の方へ向くと……

「あ……あ、あ………」

バンザイするように両腕を上に上げ、硬直させた身体を小刻みに波打たせ小さく呻き声を上げる夕貴の姿がそこにあった。
大きく見開かれた眼は焦点が合っておらず、表情は何かに怯えるように固まってしまっている。
カチ、カチ、とマウスピースと下の歯が小さく音を鳴らしているのが、怯えるという表現に拍車を掛けているかのよう。

後頭部を強打した影響だけではない。
詩織のカウンターが夕貴の意識を完全に断ち、硬直痙攣を起こしてしまっていた。

「ストーップ! 勝者、桃生」

一目見て危険なダウンと判断するや、レフェリーは即座に両手を頭上で交差。試合終了のゴングを要請した。


カンカンカンカンカンカンカーーン!


「「やったぞ桃生、お前の勝ちだ!」」

闘いの幕を下ろす鐘の音が何度も何度も打ち鳴らされるリングへ、植木と宗観が声を揃えて飛び込んできた。

「会長…先生…私………」

奇跡と言っていい大金星に身体を持ち上げられた詩織は、未だ自分が勝った事を理解出来ていない様子で呆け顔。
感想にもならない言葉を紡ぐのが精いっぱいといった様子だった。

「やった、詩織ちゃんが勝ったよ、晶ちゃん!」
「はい、おねえさま!」

アンナと晶も手を取り合ってジムメイトの初勝利を喜び合い、後ろの鉄平も「うしッ」と小さくガッツポーズを取る。

詩織を応援していた者たちが一様に喜びを爆発させる中、ただ1人柊だけは整った綺麗な顔を強張らせ違う方向へ視線を注いでいた。

「夕貴ちゃん! 夕貴ちゃん、しっかりして!」

青コーナーから駆け付けた那智の、身体を震わせ意識のない義妹へ懸命に声を掛け続ける姿。
そして、リングドクターにマウスピースを取り出され容体を確認される幼馴染みの姿。

「おい…なんだよ、さっきの……加藤。何に“ためらった”んだ、お前?」

誰にも聞こえない独り言を呟き、パンチを打つのに躊躇した理由を必死に模索する。
しかし、いくら思考を凝らしてみても答えなど出る訳もなし。
ほぼ確定だった勝ちを自らの手で逃し、持ち込まれた担架に乗せられる夕貴を見守りながら、柊はもう一度「なんでなんだよ」と肺から絞るような声を繰り返していた。



「はあ……2時。もうお昼なんだ……」

 試合から5日が経った。精密検査の結果は異状なしと判断された夕貴だったが、最後のダウンの時に後頭部を思い切りぶつけたからと那智に念を押され1週間は家で安静にするよう申し伝えられている。
夕貴は未だ残る熱っぽさと押し寄せる気怠さに身を任せ、1人布団の上に寝転がっていた。
昼食を取る気分にもなれない。確実にお腹は空いている筈なのに、食欲の方はまだ惰眠を貪るつもりのようだった。

「はあ……スマッシュ、か」

仰向けの夕貴は天井へ左拳をかざすとボツリ呟く。試合後、那智に自分をKOせしめた詩織のパンチがスマッシュだったと聞かされると、夕貴のショックは小さいものではなかった。

「こんな皮肉、そうないよね」

プロボクサーになるにあたり、那智から伝授され必死に昇華してきた必殺パンチ、スマッシュ。
事実このパンチでプロデビュー戦を勝利で飾る事が出来た。
しかしこのパンチが原因で世話になった丹羽 邑綺は引退、続く2戦目で桃生
詩織にKO負けしたフィニッシュブローもスマッシュだったなんて、これほどの皮肉があろうか。

頑張って習得したパンチが自分にとって不幸をもたらすのか……そう考えると、これから先の事も憂鬱に思えてくる。

「はあ……」

かざした左拳を目線に捉え、つい溜息を吐く。その時、不意に家のチャイムが鳴った。

「はッ!? もう、誰よ。お義兄ちゃん?」

急な事で、夕貴は少し不機嫌そうに頬を膨らませる。誰、と自問してみたものの来訪者は那智以外にないだろう。
そう決めつけドアを開けた夕貴は、次の瞬間全身を凍らせた。

「よう、加藤。元気か? 元気そうだな。ちょっと邪魔するぞ」

その場に立っていたのは那智ではなかった。それ以上に、全く予想もしていない人物だった。

「しゅ、しゅ、柊ちゃんッ!!?」

何故彼女がここに?
彼女は何故自分の家にやってきたのか?
そもそもどうやってこの家の場所を知ったのか?

色々な疑問が浮かんできては言葉に出来ず右往左往する夕貴を尻目に、柊はさも慣れ親しんだかのように靴を脱ぎ部屋に入っていく。

「あ、あの、柊ちゃんッ」
「那智さんに場所聞いてきた。どうしても聞きたい事があってな。あ、コーヒーとコーラ、どっち飲みたい?」
「………コーラ」

まるで心を読んだかのような柊の言葉に、夕貴は俯き加減でそう答えるしか出来なかった。

「柊ちゃん。今日はなにしに来たの?」

布団を片付け、小さなテーブルを挟んで幼馴染みの2人は向かい合う。オリンピックの強化合宿以来、直接に2人きりで会う機会はなかった。
色々話したい事はあった筈なのに、夕貴の口から出たのは拒否の色を多分に含んだ一言だった。

「言っただろ? 聞きたい事があるって」

コク、とコーヒーを一口含み、夕貴の様子など気にしない様子で堂々と大胡坐をかく。

「お前……あの時躊躇したろ? 最後にパンチ打つ時」

静かな空間に透き通るような柊の声で、夕貴は小さく肩をひくつかせる。そのごく僅かな動揺を、この幼馴染みは見逃さなかった。

「やっぱり単に桃生のラッキーパンチ、ってわけじゃないんだな。なんで躊躇したんだよ?」

あの試合を観戦した殆どの人が、詩織の勝ちへの執念が呼び込んだ逆転ラッキーパンチだと思っている。
セコンドの那智ですら、それは同様の認識だった。
しかし、柊にはどうしてもそう思えなかった。彼女の“眼”は、1秒にも満たなかっただろう夕貴の躊躇いを確かに捉えていたのだから。

「なんで? 柊ちゃんには関係ない事、でしょ。後輩の桃生さんが…勝ったんだから、それで…いいじゃない」

木製のテーブルに視線を落とし、夕貴は戦慄き声で返答する。詮索しないで欲しい、というニュアンスも含んだ返答。
この話題になると、どうしても邑綺の顔が思い浮かぶ。唇を震わせ両手で膝を強く掴み、このまま逃げていい事じゃないと分かっていても、今は立ち向かえそうにない。
「もう、放っといてよ」の一言が喉に詰まって出ない夕貴の俯き顔を、対面の柊の両手が挟んで自分に向かせたのはすぐの事だった。

「ふざけんな。いいわけねーだろ!? オレにボクシングするきっかけを作ったヤツが……ボクサーとして尊敬するヤツが……あんな形で落とさなくていい試合を落とすなんて我慢できねーんだよ」

真正面から見据える柊の声は穏やか。しかし、その中に怒りのようなものが混じっているのが、夕貴には確かに伝わってくる。

邑綺を引退に追い込んだ時、クラッシャーとなる事も辞さない覚悟を決めた……つもりだった。
しかし、1人のプロボクサーのこれからを奪ってしまった重圧を前に、夕貴の決意は容易く揺らいでしまった。
あれは、その甘さ故の敗北。

そして言葉に続く柊の真剣な眼差し、これは堪えた。夕貴の顔が歪む。
頬を挟む手に自分の手を添え、そこからは後悔の念が後押しして涙が流れるまでにそう時間は要しなかった。

「ごめん……ごめんね、柊ちゃん。ごめん」

夕貴の流す涙が手を汚すのも構わず。柊はテーブル越しにその顔を抱き寄せてやる。
そしてやれやれ、と手のかかる子供をあやすように、

「なんでお前みたいな泣き虫がこんなにボクシング頑張ってんだよ」

とだけ呟いた。



ひとしきり泣くに任せ、ようやく落ち着くと夕貴は柊の知りたかった疑問に答え始めた。

デビュー戦で世話になった選手と闘い、自分の拳でその選手のボクサー生命を奪ってしまった事
見舞いに行った先でセコンドだった男性に恨み言を言われ、以降何度も夢に出てきた事
詩織にとどめを刺そうとした時、記憶がフラッシュバックしてきた為に躊躇ってしまった事

那智にすら話さなかった本心を、夕貴は全て吐露した。
自分の知りたかった事を本人から全て聞いた後、柊はしばし無言でコーヒーを啜る。
自分を落ち着かせるようにコーラを飲む夕貴の姿を、他人事のように思えなかったからだ。
彼女ほどのパンチでなくとも、当たり所が悪ければ対戦相手を再起不能にしてしまう……それだけでも恐ろしいのに、対象が知り合いだったなら尚更だろう。

(ヘタしたらそういう経験、したんだろうな。オレも)

無意識に身震いする腕を抑え、小さく溜息を吐くと柊は夕貴へ聞いた。

「なあ。お前、これからどうするんだ?」

言葉少ない柊の質問の意味を、夕貴は理解した。

これからもプロボクサーとしてやっていけるのか? 

そういうのである。正直な所、これからもプロのリングに上がり相手に本気のパンチを振るう以上、今回のトラウマが再発しないとは限らない。
しかし、胸の内を柊に吐き出した事で少しは気持ちが軽く、そして前向きになれたように思う。

「大丈夫、だと思う。あたしはこれからも続けるよ……ボクシング」

うっすら腫れた眼を柊に向け、夕貴は凛とした表情で問いに答える。その眼差しからは強く決意に満ちた光が灯っていた。

「そうか。そうだな、お前からボクシング取ったらなんにも残んねーもんな」

夕貴の眼の光を見て取った柊は、安堵したように僅かな微笑みを覗かせ悪態を吐いてみせた。
これから先、恐らくは例のトラウマに悩まされるだろう。しかし、それすらこの幼馴染みのボクサーは乗り越えていくだろう。
そう確信し、柊は夕貴と別れた。



柊の来訪から1か月後。練習にも復帰し次戦へ向け順調に進んでいた夕貴へ、那智から衝撃の提案が告げられる。
一度日本を離れ、主にアジア圏を視野に世界のボクサー達を相手どって長期の武者修行をすると宣言されたのだ。

那智なりに2戦目の敗戦の原因を考えた末の、これは荒療治だった。次の試合が決まれば柊にチケットを送るつもりだったが、どうやらそうは行かなくなったらしい。

自分の甘さを克服するには、いっそこのくらいの荒療治が必要なのかも知れない。
そう結論した夕貴は那智の提案に乗り、柊に事情を伝え日本を出た。

そして半年後。フィリピンに立ち寄った夕貴と那智は、ここでアジアを中心に手腕を振るう敏腕プロモーター、ショーン・石塚と出会いを果たす。
日系フィリピン人の石塚と契約した夕貴は、アジア圏を舞台とした激しく険しいチャンピオン・ロードをひた走る事となる……


                                    ~~fin~~


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コメント

No title

面白かったです(^◇^)
海外での武者修行で心身ともに強くなって帰ってきてナミや柊と世界チャンピオンを賭けて試合をしてほしいですね。
前のコメントにあった、梨佳子の見せ場にも期待してます。地道な努力を重ねて強くなる人って好感がもてます^_^

Re: No title

匿名希望さま>コメントありがとうございます。出番はどうしても少なくなる夕貴ですが、ナミにとって最大のライバルはやはり夕貴なので、必ずどこかでぶつかります。頑張ってそこまで書きたいですね。
梨佳子の見せ場も何とか作りたい所ですが、もう少し先の話になりそうです……

No title

面白い展開でした。!!

一番、好きなキャラは夕貴ですので
ナミとの試合がなるとどっちを応援するか
難しいですね。
この試合の場合はイラストも見てみたくなりました。

いつもワクワクしながらアップを待っています。
今後もよろしくお願いします。

Re: No title

頑張れさま>コメントありがとうございます。あまり出番のない夕貴を気に入って頂けて嬉しい限りです。ナミと再びぶつかる時が必ず来ますので、その時をお待ちくださいませ。

No title

デビュー2戦目の相手が桃生詩織ちゃんになるとは思いませんでした。加藤さんが主人公なのに詩織ちゃんの倒されても立ち上がり戦う姿勢には感度しています。いつもながらチャパロットさんのようなしっかりとしたストーリーの美少女ボクシング小説がアニメは無理でも漫画になればいいなあと思っています。

Re: No title

HAYASEさま>いつもありがたいコメント感謝です。ちょっと詩織が粘り過ぎた気もしますけど、そこはあくまで物語と割り切って頂けると幸いです。
ボクシングはスポーツの中でも動きに制約が多いので、上手く表現したくとも常に技量不足を痛感する思いなのですが、ストーリー性で少しだけでも穴埋め出来れば……と思っています。

遅まきながらのコメント申し訳ありません。チャパロット様の作品は絵、小説共に楽しみに拝見させていただいております。夕貴が久々に登場し嬉しいです。いずれくるナミとの再戦ももちろんですが、彼女には柊を超えて欲しくて仕方ありません。スパーリングでの敗北、オリンピックでの境遇など大きく差を付けられた2人の関係が海外遠征によってどう変わるのか、続きを非常に楽しみにしております。

Re: タイトルなし

応援してます様>コメントありがとうございます。文章も絵も何とも中途半端で恐縮の至りですが、楽しんで頂けているなら幸いです。
ナミのライバルとして登場したにしてはとにかく出番の機会がない夕貴ですので、今回外話という形で1本ストーリーを挟みましたが、もしかしたらすっきりしない内容だったかも知れません……
後からボクシングを始めた幼馴染みに一気に追い抜かれていった感のある彼女ですが、ラストの海外遠征を経てどこまで成長し再登場するのか? いずれ書く事になると思いますので、牛歩の極みではありますがお待ち頂ければ嬉しいです。
Secre

プロフィール

チャパロット

Author:チャパロット
基本的に携帯サイトで書かせて頂いているもののリメイク(?)ですが、ちょくちょく文を変更してたりします(あと拙いですが自作絵なども)。
何かある方は、ckcwb305あっとまーくsutv.zaq.ne.jpにご連絡下さい。

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