2014.03.11(Tue)
プロボクシング編、最終話 『私立光陵高校、卒業!』
随分と間が空いてしまいましたが、プロボクシング編の最終話をお送りします。
追い出しスパーリング最後の対戦、アンナvs植木。バトルジャンキーのアンナすら圧される程の気迫を放つ植木。
が、アンナは気を持ち直しスタミナの消耗も辞さない攻めを敢行。
そして第2R、がら空きのボディー攻めでダメージを与えるもカウンターを貰ってしまい、ダウンを喫してしまうのだった。
「1…2…3……」
レフェリー、前野 裕也のダウンカウントが無情に響くリング上。三年生vs一・二年生連合による追い出しスパーリングは、城之内 アンナと植木 四五郎との最終特別戦の最中だった。
第2Rに入ってようやくリズムを掴んだかに見えたアンナが、狙いすました植木のカウンターによって呆気ないダウン。
コーナーに向かい僅かにお尻を浮かせうつ伏せに沈んだアンナは、カウントが3を過ぎても起き上がる気配を見せないままだ。
「アンナちゃん立って!」
同級生で二代目の主将を務めた葉月 越花が、赤コーナーまで走り寄り檄を飛ばす。
「……ぅ…えつか、ちゃん」
その声に反応したのか、カウント5でようやく身体を起こし始めるとヨロヨロとふらつきながらも四つん這いへ。
しかし、カウント8で中腰になった所でカクンと膝を折ってしまい、再びキャンバスに尻もちを着いてしまった。
「くそ、駄目か」
リング外で悔しそうに拳を鳴らし、顔を背ける我聞 鉄平。
「んがッ」
しかしアンナは不屈の闘志を見せロープをひっ掴むと、力任せに身体を引き上げ半回転し、背中を凭れさせる恰好でファイティングポーズを構えてみせた。
この時、実にカウント10を言い渡そうとした瞬間。
正に首の皮1枚で繋がる生存だった。
「やれるか?」
裕也が呼吸を荒げるアンナに短く問う。
「はぁ、はぁ、はぁ…だ、大丈夫。お願いだからやらせて」
よほど効いているのか、内股になり身体を揺らすも未だ炎は燃え尽きていないからとアンナは碧い瞳に強い光を灯す。
「前野、やらせてやってくれ。責任は全部俺が持つから」
言葉と裏腹に立っているのがやっとといった風のアンナを見て、判断に迷っている裕也へニュートラルコーナーに控えていた植木からの一言。
顧問の許可済みとあっては従わざるを得ないと、「ボックス!」の掛け声を上げ試合が再開された。
「そらどうした!? ガードだけじゃまた倒されるだけだぞ」
立ち上がり試合が再開されたはいいものの、ダウンのダメージが色濃く残るアンナは迫る植木の猛攻にロープを背負ったまま、手を出す事も叶わず封殺される寸前であった。
植木のパンチを必死にガードする度、背中を預けたロープがギシギシ軋みを上げ徐々に食い込んでくるのを感じる。
「ぶふぅッ」
第2ラウンド残り30秒、遂に防壁は砕かれアンナの頬に植木の左フックがめり込むと、首が捻じらされ血の滲んだ唇の隙間から唾液が飛沫となってリング外へ。
力の抜ける感覚が一気に全身を駆け巡るが、マウスピースを噛み締めアンナは崩れるのを拒否。
顔を歪め反撃の右ストレートをオーバーハンドで放とうとした。
しかし……
グンッ!
パンチは前へ飛び出さなかった。
「ッ!?」
腕に凄まじい違和感を覚え、攻防の最中にも関わらずアンナは違和感の方へ視線を移す。
なんと、振りかぶった右腕がトップロープに引っかかってパンチを打てなかったのだ。
不運極まりないとはこの事か。今、アンナを守る壁は一切ない状態。
これを見逃す植木ではなく、膝を落とし身を低めると右腕を後ろへ引く。
全身の筋肉を連動させ右拳を下から上へ突き上げると、そのまま一気に伸び上がった。
狙うは剥き出しのほっそりしたアゴ!
「ひッ」
植木の狙いとその結果が瞬時に脳裏をよぎり、右腕がロープに絡んでいる絶望感が否応なく背筋に冷や汗をかかせてしまう。
本能的に小さく悲鳴を上げると、少しでも直撃を避けようと頭を思い切り仰け反らせた。
さながらロープをてこにブリッジをするかのような恰好だ。
そしてこの後、誰1人として予想していなかったハプニングが起こった。
ビリイィイッ!
皆の鼓膜を叩く、力任せに布を裂く嫌な音。
植木の右拳に纏わりつく、本来なら有り得ない白の生地。
「え………?」
ロープ際での光景を整理出来た者から順次に、そして誰1人の例外もなく漏れる「え?」の一言。
そして訪れる、僅かな間の静寂。
植木の放った右アッパーが、思い切り仰け反った事で隙間の出来たアンナのタンクトップを引っ掛け、勢いそのままに引き裂いたのである。
「ッ……!?」
たった今まで着ていた白い生地が引き裂かれ、粉雪のように小さな布の欠片が舞うのを見て、アンナは声にならない声を出す。
当然だろう。汗の流れる、透き通るような白い肌が隠す物もなく露わとなっているのだから。
「ぃ……ぃひやあああああーーー!!」
全てを理解し整理がついた時、アンナは顔を真っ赤にして叫ぶ。
そして、ロープから腕を外すとフォームも何もない右拳を植木へ振り回した。
「な!? す、すまふごおッ!」
あまりに突飛なアクシデントで、アンナとは別の意味で慌てふためく植木。反射的に謝ろうとした顔面へ、大振りのアンナの右がモロにめり込むと大きく仰け反る。
意識の外からのジャストミートに意識を飛ばされた植木は、哀れリングに大の字でもんどり打つのであった。
「ん、んぅ……」
自分の呻きに閉じていた意識が覚醒し、植木はゆっくり目を開く。ぼやけた視界に映ったのは、見慣れたボリュームのある茶色の髪の女の子。
「あ、目が覚めた。孝子さん、こっちは大丈夫みたいです」
見慣れた茶髪の娘…ナミは植木の様子を新顧問の新名 孝子へ伝えると、目を見て苦笑いをひとつ。
「ホント、どんなラッキースケベよ四五兄ィ」
不可抗力とはいえ、アンナの素肌を1番間近で見たのだ。最後の最後にやらかしてくれた、と思うと自然と笑みも浮かぶ。
或いは大事に至らなくて良かった、という安堵も混じっていたかも知れない。
「……わざとじゃない」
が、苦笑いされた当の植木は気まずさのあまりそっぽを向き短く返すだけだった。そして、そっぽを向いた先に見える横たわった人物が1人。
「鉄平?」
そう、植木の視線の先にはタオルで顔を覆い横になっている我聞 鉄平の姿があった。
「思いっきり鼻血出してぶっ倒れたのよ、あのスケベ」
今度は心底呆れた表情でナミが吐き捨てる。アンナの裸を目の当たりにし、興奮のあまりノックアウトされたのだ。
色々な意味で2人をノックアウトしたアンナはといえば、既にリングを降り破れたタンクトップの代わりに女子ボクシング部のジャージを羽織っている。
目を覚ました植木の方を心配そうにチラチラ見ながら、しかし恥ずかしそうに目を逸らすばかりだった。
「心配しなくてもいいよ。そんなに気にしてない、って言ってたし」
アンナの挙動に辟易した表情を見せる植木に、ナミが救いの一言を告げる。
その一言で済ませられるほど、植木は無責任な男ではない。
が、とりあえずは後で改めて謝る事としてこの件は一旦置こう……そう思う植木であった。
案の定波乱ばかりの三年生追い出しスパーリングが終わって、時は駆け足のように過ぎ去っていく。ナミたち三年生は部を引退後、それぞれの道へ旅立つべくそれぞれの時間を使っていた。
プロボクサーとして過酷かつ困難の道を歩むのはナミ、順子、アンナ、越花、秋奈の5名。
うちナミと秋奈は大学へ進学、二足の草鞋を履く。
アンナは大学へは行かず幾つかのアルバイトを掛け持ちし、越花は花嫁修業と称してボクシング1本に絞る。
ジム費を稼ぐ為、長く『ぴくるす亭』のウェイトレスとして働いてきた順子は、なんと卒業と同時に晴れて正社員として採用される事が決定。
一層の努力をすると喜んでいた。
都亀と陽子と雪菜は大学へ進み、陽子を除く2人は共にアマチュア現役を続行の意思。
心は家庭の事情もあって進学は断念、アルバイトとトレーナー資格取得を兼ねてナミの叔父が経営する湘南スポーツセンターへ。
そして、ロンドンオリンピックで金メダリストとなった国民的ヒロイン・高頭 柊。
アマチュアの頂点を極めたからには次のステージ……即ちプロの頂点を目指すものと大多数が期待していた。が、彼女の選択はそれを裏切るものとなる。
なんと、ボクシングからきっぱり足を洗うと宣言したのだ。
倒すべき目標のいないプロの世界に興味はない
そう言い残し、柊は体育大学の推薦を蹴り密かに進めていた志望校への受験に合格。晴れて『普通の』女子大生となったのであった。
卒業式当日。ナミは登校時間より早めに門を潜り、敷地内を歩いて回っていた。まず最初に向かったのは、卒業と併せて取り潰し予定の旧校舎。
「ここで四五兄ィに会ってから全てが始まったんだなあ」
当時入学前だったナミは女子ボクシング部がないと知らず、この旧校舎に迷い込んだ所で植木と遭遇。
自分が女子ボクシング部を作ると啖呵を切ったのも、今は良い思い出である。
それから部員を集め、桃生 誠率いる男子ボクシング部と設立を巡っての団体戦。
減量が上手くいかず出場出来なかった新人戦。
偶然のバッティングで負傷し、涙を飲んだI・H全国大会。
瞼を閉じれば、過去の辛く楽しい記憶が目まぐるしく反芻されていく。巡っては過ぎていく記憶に身を委ねて校内を一周し、最後に辿り着いたのは最も思い出深い場所。
女子ボクシング部室だった。
「ん? 随分早い登校だな、ナミ坊」
部室のドアの前に着くと、ほぼ同時に自分を呼ぶ声がして後ろを振り向く。
「四五兄ィおはよ。今日で最後かと思うと、なんとなくね」
全幅の信頼のおける、兄代わりの男にナミははにかみ笑顔をひとつ。振り向きざまのこの仕草が、植木にとっては代え難い魅力に映る。
思えば、この気持ちに気付いてからもう3年。
「お前、ちょっと大人っぽくなったな」
つい、素直な感想を口にしていた。
「はあ? なにそれ、当たり前でしょ。わたしももう18なんだから」
植木の突然の一言に、はにかみ笑顔から一転呆れ顔へ変化するナミ。
「それはそうと……あと2週間か、次の試合まで」
口を滑らせた気恥ずかしさに髪をガシガシ掻きながら、植木は話題を変える。こんな話題しか振れない辺り、我ながら甲斐性のない男だと自嘲してしまう。
しかし、こんな話題が彼女の関心を惹くに最も効果的だったりもするのだ。
「うん。次の相手、なんと29歳なんだって! ちょっと驚きよね」
女子ボクシング部室の前で目を輝かせてボクシングの話をするナミに、やはり根は何も変わっていないと植木は苦笑する。
「驚いたって言えば、5月のカードもビックリしたわ。まさかアンナと越花がいきなりやり合うなんて」
アンナと越花がライト級のプロデビュー戦でいきなりぶつかり合う……このニュースは、彼女らを知るほぼ全員に驚きをもたらした。
当人たちを除いては。
このカードが組まれるまでの経緯には、少々事情がある。
まず、あの追い出しスパーリングから約1週間後、突然アンナが吉川ジムへの移籍を表明。
沼田ジムには同級に中山 梨沙がおり、彼女とも闘いたくなったから……というのが主な理由らしい。
そして獅堂 きららの父、孝次郎が再開した獅堂ジムと吉川ジム、新興ジム同士で興行を打つことになった。
獅堂ジムの出資元である新堂グループと、吉川ジムのオーナーである棗 希美との合意の下、そのうちの対戦カードの1つとして獅堂ジム所属の越花が割り当てられたのであった。
尤も、事情を聞いた越花がアンナとの対戦を熱望した、との噂もあったのだが……
ともかく、同じ部の出身で共にプロデビュー戦同士とあって地元、ここ神奈川では早くも話題となっている。
ドローにならない限り、どちらかが真っ白なキャンバスに墨を落とす事になるのだ。
ある意味残酷な仕打ちだと、自身も幼馴染みの上原 梨佳子と経験しておきながらナミは思う。
「まあな。俺としてはぶつかって欲しくなかった、ってのが本音なんだが。あいつらが望んだ以上、仕方ないさ」
燦々と照らす太陽の光に手傘を作り、植木は青空を見上げる。彼にしてみれば、やはりどちらも可愛い教え子。
敗北からのスタートはさせたくないに違いない。
暫し空を眺めた後、植木は決意を固めると再びナミの方を向いた。
「ナミ坊」
「ん?」
「………好きだ」
身体に染み付いた癖で軽くシャドーをしていたナミが、「好きだ」の言葉に固まる。
「え、っと……うん、ありがと」
「真面目に聞け。俺はお前が好きだ、1人の女として。だから………だから、俺と付き合って欲しい」
「えっ、と……ちょっと考えさせて。卒業式が終わったら返事、するから」
あまりに突然の告白だっただけに、ナミは気が動転してしまう。辛うじて返答を先延ばしにするのが精一杯だった。
植木と別れ、思考が乱れたまま迎えた卒業式。愛の告白など初めての経験だけに、考えようとすればするほど深海に沈んでいくような、そんな感覚にはまっていく。
分かっているのは、自分も植木が好きだという事。
告白されて、嬉しさに高揚した事。
見知らぬ男子に告白されるより、10倍は嬉しかったに違いない。ただ、この気持ちがlikeなのかloveなのか、それがはっきりしないのだ。
いや、恐らくはlove寄りだと思う。 小さい頃に初めて彼と話してからもう10年は経つか。
友達の人形を取ったガキ大将に仕返しするべく、彼に初めて右ストレートを教わってから約8年。
それだけの刻を経て、ナミにとって植木 四五郎の存在は憧れの兄貴分と違うものへと変化してきた。
「わたしって……」
少しずつ少しずつ気持ちが恋愛感情へ傾き、決定的に胸が締め付けられたのは、植木が山之井ジムを辞め吉川ジムのトレーナーとして決意した時ではなかったか。
そして今朝の告白。
「四五兄ィの事、好きなんだ」
気付かされた。いや、気持ちが整理されたといった方がしっくり来るかも知れない。
ナミの気持ちが固まった時、卒業証書授与の正にその瞬間だった。
意を決し奥に宿す強烈な眼の光は、さながら威嚇する獣のようだったと、後に正面から対峙した校長は述懐する。
滞りなく卒業式は終了し、ナミは後で合流するからと女子ボクシング部員の群れから離れると植木を探す。
程なく職員室近くの廊下で植木を発見すると、ナミは旧校舎の方へ引っ張っていった。
「はぁ、はぁ、四五兄ィ」
全力で校内を走り回ったのだろう、少し息を切らすナミの姿に緊張した面持ちを作る植木。
「わたしね。わたしも四五兄ィの事、好き。大好き!」
拙い言葉を口にし、ナミは眼前の広く逞しい胸元にその身を委ねる。そして爪先を伸ばすと、一気にその唇を植木の唇へ重ねた。
「んッ!?」
まるで想定外の奇襲に、植木は全身を強張らせる。
しかしそれも長くなく、ナミはすぐに離れた。
「お前……」
呆然とする植木へ、ナミは自身の唇を指でなぞりながら頬を染め告げた。
「ねえ四五兄ィ、彼女から早速のお願い。わたしと付き合うからには、ちゃんと無精髭剃ってね」
こうして、下司 ナミの高校3年間は幕を閉じた。
青春の1ページを終え、次なるステージはプロの世界。
待ち受ける試練・激闘を前に、しかし最愛の人を得てナミは意気を高めるのであった。
光陵高校女子ボクシング部・プロボクシング編、完
see you next stage……完結編
追い出しスパーリング最後の対戦、アンナvs植木。バトルジャンキーのアンナすら圧される程の気迫を放つ植木。
が、アンナは気を持ち直しスタミナの消耗も辞さない攻めを敢行。
そして第2R、がら空きのボディー攻めでダメージを与えるもカウンターを貰ってしまい、ダウンを喫してしまうのだった。
「1…2…3……」
レフェリー、前野 裕也のダウンカウントが無情に響くリング上。三年生vs一・二年生連合による追い出しスパーリングは、城之内 アンナと植木 四五郎との最終特別戦の最中だった。
第2Rに入ってようやくリズムを掴んだかに見えたアンナが、狙いすました植木のカウンターによって呆気ないダウン。
コーナーに向かい僅かにお尻を浮かせうつ伏せに沈んだアンナは、カウントが3を過ぎても起き上がる気配を見せないままだ。
「アンナちゃん立って!」
同級生で二代目の主将を務めた葉月 越花が、赤コーナーまで走り寄り檄を飛ばす。
「……ぅ…えつか、ちゃん」
その声に反応したのか、カウント5でようやく身体を起こし始めるとヨロヨロとふらつきながらも四つん這いへ。
しかし、カウント8で中腰になった所でカクンと膝を折ってしまい、再びキャンバスに尻もちを着いてしまった。
「くそ、駄目か」
リング外で悔しそうに拳を鳴らし、顔を背ける我聞 鉄平。
「んがッ」
しかしアンナは不屈の闘志を見せロープをひっ掴むと、力任せに身体を引き上げ半回転し、背中を凭れさせる恰好でファイティングポーズを構えてみせた。
この時、実にカウント10を言い渡そうとした瞬間。
正に首の皮1枚で繋がる生存だった。
「やれるか?」
裕也が呼吸を荒げるアンナに短く問う。
「はぁ、はぁ、はぁ…だ、大丈夫。お願いだからやらせて」
よほど効いているのか、内股になり身体を揺らすも未だ炎は燃え尽きていないからとアンナは碧い瞳に強い光を灯す。
「前野、やらせてやってくれ。責任は全部俺が持つから」
言葉と裏腹に立っているのがやっとといった風のアンナを見て、判断に迷っている裕也へニュートラルコーナーに控えていた植木からの一言。
顧問の許可済みとあっては従わざるを得ないと、「ボックス!」の掛け声を上げ試合が再開された。
「そらどうした!? ガードだけじゃまた倒されるだけだぞ」
立ち上がり試合が再開されたはいいものの、ダウンのダメージが色濃く残るアンナは迫る植木の猛攻にロープを背負ったまま、手を出す事も叶わず封殺される寸前であった。
植木のパンチを必死にガードする度、背中を預けたロープがギシギシ軋みを上げ徐々に食い込んでくるのを感じる。
「ぶふぅッ」
第2ラウンド残り30秒、遂に防壁は砕かれアンナの頬に植木の左フックがめり込むと、首が捻じらされ血の滲んだ唇の隙間から唾液が飛沫となってリング外へ。
力の抜ける感覚が一気に全身を駆け巡るが、マウスピースを噛み締めアンナは崩れるのを拒否。
顔を歪め反撃の右ストレートをオーバーハンドで放とうとした。
しかし……
グンッ!
パンチは前へ飛び出さなかった。
「ッ!?」
腕に凄まじい違和感を覚え、攻防の最中にも関わらずアンナは違和感の方へ視線を移す。
なんと、振りかぶった右腕がトップロープに引っかかってパンチを打てなかったのだ。
不運極まりないとはこの事か。今、アンナを守る壁は一切ない状態。
これを見逃す植木ではなく、膝を落とし身を低めると右腕を後ろへ引く。
全身の筋肉を連動させ右拳を下から上へ突き上げると、そのまま一気に伸び上がった。
狙うは剥き出しのほっそりしたアゴ!
「ひッ」
植木の狙いとその結果が瞬時に脳裏をよぎり、右腕がロープに絡んでいる絶望感が否応なく背筋に冷や汗をかかせてしまう。
本能的に小さく悲鳴を上げると、少しでも直撃を避けようと頭を思い切り仰け反らせた。
さながらロープをてこにブリッジをするかのような恰好だ。
そしてこの後、誰1人として予想していなかったハプニングが起こった。
ビリイィイッ!
皆の鼓膜を叩く、力任せに布を裂く嫌な音。
植木の右拳に纏わりつく、本来なら有り得ない白の生地。
「え………?」
ロープ際での光景を整理出来た者から順次に、そして誰1人の例外もなく漏れる「え?」の一言。
そして訪れる、僅かな間の静寂。
植木の放った右アッパーが、思い切り仰け反った事で隙間の出来たアンナのタンクトップを引っ掛け、勢いそのままに引き裂いたのである。
「ッ……!?」
たった今まで着ていた白い生地が引き裂かれ、粉雪のように小さな布の欠片が舞うのを見て、アンナは声にならない声を出す。
当然だろう。汗の流れる、透き通るような白い肌が隠す物もなく露わとなっているのだから。
「ぃ……ぃひやあああああーーー!!」
全てを理解し整理がついた時、アンナは顔を真っ赤にして叫ぶ。
そして、ロープから腕を外すとフォームも何もない右拳を植木へ振り回した。
「な!? す、すまふごおッ!」
あまりに突飛なアクシデントで、アンナとは別の意味で慌てふためく植木。反射的に謝ろうとした顔面へ、大振りのアンナの右がモロにめり込むと大きく仰け反る。
意識の外からのジャストミートに意識を飛ばされた植木は、哀れリングに大の字でもんどり打つのであった。
「ん、んぅ……」
自分の呻きに閉じていた意識が覚醒し、植木はゆっくり目を開く。ぼやけた視界に映ったのは、見慣れたボリュームのある茶色の髪の女の子。
「あ、目が覚めた。孝子さん、こっちは大丈夫みたいです」
見慣れた茶髪の娘…ナミは植木の様子を新顧問の新名 孝子へ伝えると、目を見て苦笑いをひとつ。
「ホント、どんなラッキースケベよ四五兄ィ」
不可抗力とはいえ、アンナの素肌を1番間近で見たのだ。最後の最後にやらかしてくれた、と思うと自然と笑みも浮かぶ。
或いは大事に至らなくて良かった、という安堵も混じっていたかも知れない。
「……わざとじゃない」
が、苦笑いされた当の植木は気まずさのあまりそっぽを向き短く返すだけだった。そして、そっぽを向いた先に見える横たわった人物が1人。
「鉄平?」
そう、植木の視線の先にはタオルで顔を覆い横になっている我聞 鉄平の姿があった。
「思いっきり鼻血出してぶっ倒れたのよ、あのスケベ」
今度は心底呆れた表情でナミが吐き捨てる。アンナの裸を目の当たりにし、興奮のあまりノックアウトされたのだ。
色々な意味で2人をノックアウトしたアンナはといえば、既にリングを降り破れたタンクトップの代わりに女子ボクシング部のジャージを羽織っている。
目を覚ました植木の方を心配そうにチラチラ見ながら、しかし恥ずかしそうに目を逸らすばかりだった。
「心配しなくてもいいよ。そんなに気にしてない、って言ってたし」
アンナの挙動に辟易した表情を見せる植木に、ナミが救いの一言を告げる。
その一言で済ませられるほど、植木は無責任な男ではない。
が、とりあえずは後で改めて謝る事としてこの件は一旦置こう……そう思う植木であった。
案の定波乱ばかりの三年生追い出しスパーリングが終わって、時は駆け足のように過ぎ去っていく。ナミたち三年生は部を引退後、それぞれの道へ旅立つべくそれぞれの時間を使っていた。
プロボクサーとして過酷かつ困難の道を歩むのはナミ、順子、アンナ、越花、秋奈の5名。
うちナミと秋奈は大学へ進学、二足の草鞋を履く。
アンナは大学へは行かず幾つかのアルバイトを掛け持ちし、越花は花嫁修業と称してボクシング1本に絞る。
ジム費を稼ぐ為、長く『ぴくるす亭』のウェイトレスとして働いてきた順子は、なんと卒業と同時に晴れて正社員として採用される事が決定。
一層の努力をすると喜んでいた。
都亀と陽子と雪菜は大学へ進み、陽子を除く2人は共にアマチュア現役を続行の意思。
心は家庭の事情もあって進学は断念、アルバイトとトレーナー資格取得を兼ねてナミの叔父が経営する湘南スポーツセンターへ。
そして、ロンドンオリンピックで金メダリストとなった国民的ヒロイン・高頭 柊。
アマチュアの頂点を極めたからには次のステージ……即ちプロの頂点を目指すものと大多数が期待していた。が、彼女の選択はそれを裏切るものとなる。
なんと、ボクシングからきっぱり足を洗うと宣言したのだ。
倒すべき目標のいないプロの世界に興味はない
そう言い残し、柊は体育大学の推薦を蹴り密かに進めていた志望校への受験に合格。晴れて『普通の』女子大生となったのであった。
卒業式当日。ナミは登校時間より早めに門を潜り、敷地内を歩いて回っていた。まず最初に向かったのは、卒業と併せて取り潰し予定の旧校舎。
「ここで四五兄ィに会ってから全てが始まったんだなあ」
当時入学前だったナミは女子ボクシング部がないと知らず、この旧校舎に迷い込んだ所で植木と遭遇。
自分が女子ボクシング部を作ると啖呵を切ったのも、今は良い思い出である。
それから部員を集め、桃生 誠率いる男子ボクシング部と設立を巡っての団体戦。
減量が上手くいかず出場出来なかった新人戦。
偶然のバッティングで負傷し、涙を飲んだI・H全国大会。
瞼を閉じれば、過去の辛く楽しい記憶が目まぐるしく反芻されていく。巡っては過ぎていく記憶に身を委ねて校内を一周し、最後に辿り着いたのは最も思い出深い場所。
女子ボクシング部室だった。
「ん? 随分早い登校だな、ナミ坊」
部室のドアの前に着くと、ほぼ同時に自分を呼ぶ声がして後ろを振り向く。
「四五兄ィおはよ。今日で最後かと思うと、なんとなくね」
全幅の信頼のおける、兄代わりの男にナミははにかみ笑顔をひとつ。振り向きざまのこの仕草が、植木にとっては代え難い魅力に映る。
思えば、この気持ちに気付いてからもう3年。
「お前、ちょっと大人っぽくなったな」
つい、素直な感想を口にしていた。
「はあ? なにそれ、当たり前でしょ。わたしももう18なんだから」
植木の突然の一言に、はにかみ笑顔から一転呆れ顔へ変化するナミ。
「それはそうと……あと2週間か、次の試合まで」
口を滑らせた気恥ずかしさに髪をガシガシ掻きながら、植木は話題を変える。こんな話題しか振れない辺り、我ながら甲斐性のない男だと自嘲してしまう。
しかし、こんな話題が彼女の関心を惹くに最も効果的だったりもするのだ。
「うん。次の相手、なんと29歳なんだって! ちょっと驚きよね」
女子ボクシング部室の前で目を輝かせてボクシングの話をするナミに、やはり根は何も変わっていないと植木は苦笑する。
「驚いたって言えば、5月のカードもビックリしたわ。まさかアンナと越花がいきなりやり合うなんて」
アンナと越花がライト級のプロデビュー戦でいきなりぶつかり合う……このニュースは、彼女らを知るほぼ全員に驚きをもたらした。
当人たちを除いては。
このカードが組まれるまでの経緯には、少々事情がある。
まず、あの追い出しスパーリングから約1週間後、突然アンナが吉川ジムへの移籍を表明。
沼田ジムには同級に中山 梨沙がおり、彼女とも闘いたくなったから……というのが主な理由らしい。
そして獅堂 きららの父、孝次郎が再開した獅堂ジムと吉川ジム、新興ジム同士で興行を打つことになった。
獅堂ジムの出資元である新堂グループと、吉川ジムのオーナーである棗 希美との合意の下、そのうちの対戦カードの1つとして獅堂ジム所属の越花が割り当てられたのであった。
尤も、事情を聞いた越花がアンナとの対戦を熱望した、との噂もあったのだが……
ともかく、同じ部の出身で共にプロデビュー戦同士とあって地元、ここ神奈川では早くも話題となっている。
ドローにならない限り、どちらかが真っ白なキャンバスに墨を落とす事になるのだ。
ある意味残酷な仕打ちだと、自身も幼馴染みの上原 梨佳子と経験しておきながらナミは思う。
「まあな。俺としてはぶつかって欲しくなかった、ってのが本音なんだが。あいつらが望んだ以上、仕方ないさ」
燦々と照らす太陽の光に手傘を作り、植木は青空を見上げる。彼にしてみれば、やはりどちらも可愛い教え子。
敗北からのスタートはさせたくないに違いない。
暫し空を眺めた後、植木は決意を固めると再びナミの方を向いた。
「ナミ坊」
「ん?」
「………好きだ」
身体に染み付いた癖で軽くシャドーをしていたナミが、「好きだ」の言葉に固まる。
「え、っと……うん、ありがと」
「真面目に聞け。俺はお前が好きだ、1人の女として。だから………だから、俺と付き合って欲しい」
「えっ、と……ちょっと考えさせて。卒業式が終わったら返事、するから」
あまりに突然の告白だっただけに、ナミは気が動転してしまう。辛うじて返答を先延ばしにするのが精一杯だった。
植木と別れ、思考が乱れたまま迎えた卒業式。愛の告白など初めての経験だけに、考えようとすればするほど深海に沈んでいくような、そんな感覚にはまっていく。
分かっているのは、自分も植木が好きだという事。
告白されて、嬉しさに高揚した事。
見知らぬ男子に告白されるより、10倍は嬉しかったに違いない。ただ、この気持ちがlikeなのかloveなのか、それがはっきりしないのだ。
いや、恐らくはlove寄りだと思う。 小さい頃に初めて彼と話してからもう10年は経つか。
友達の人形を取ったガキ大将に仕返しするべく、彼に初めて右ストレートを教わってから約8年。
それだけの刻を経て、ナミにとって植木 四五郎の存在は憧れの兄貴分と違うものへと変化してきた。
「わたしって……」
少しずつ少しずつ気持ちが恋愛感情へ傾き、決定的に胸が締め付けられたのは、植木が山之井ジムを辞め吉川ジムのトレーナーとして決意した時ではなかったか。
そして今朝の告白。
「四五兄ィの事、好きなんだ」
気付かされた。いや、気持ちが整理されたといった方がしっくり来るかも知れない。
ナミの気持ちが固まった時、卒業証書授与の正にその瞬間だった。
意を決し奥に宿す強烈な眼の光は、さながら威嚇する獣のようだったと、後に正面から対峙した校長は述懐する。
滞りなく卒業式は終了し、ナミは後で合流するからと女子ボクシング部員の群れから離れると植木を探す。
程なく職員室近くの廊下で植木を発見すると、ナミは旧校舎の方へ引っ張っていった。
「はぁ、はぁ、四五兄ィ」
全力で校内を走り回ったのだろう、少し息を切らすナミの姿に緊張した面持ちを作る植木。
「わたしね。わたしも四五兄ィの事、好き。大好き!」
拙い言葉を口にし、ナミは眼前の広く逞しい胸元にその身を委ねる。そして爪先を伸ばすと、一気にその唇を植木の唇へ重ねた。
「んッ!?」
まるで想定外の奇襲に、植木は全身を強張らせる。
しかしそれも長くなく、ナミはすぐに離れた。
「お前……」
呆然とする植木へ、ナミは自身の唇を指でなぞりながら頬を染め告げた。
「ねえ四五兄ィ、彼女から早速のお願い。わたしと付き合うからには、ちゃんと無精髭剃ってね」
こうして、下司 ナミの高校3年間は幕を閉じた。
青春の1ページを終え、次なるステージはプロの世界。
待ち受ける試練・激闘を前に、しかし最愛の人を得てナミは意気を高めるのであった。
光陵高校女子ボクシング部・プロボクシング編、完
see you next stage……完結編
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